竹久夢二

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プロフィール
明治17年(1884年)9月16日 - 昭和9年(1934年)9月1日)は日本の画家・詩人。本名は竹久 茂次郎(たけひさ もじろう)。
[経歴]
明治17年(1884年)0歳
9月16日 岡山県邑久郡本庄村(現・岡山県瀬戸内市邑久町本庄)に代々酒造業を営む家に次男として生まれる。兄が前年に亡くなっていたため、事実上の長男として育てられる。

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明治32年(1899年)15歳
神戸の叔父宅に寄宿、兵庫県神戸尋常中学校(後の神戸一中、現在の兵庫県立神戸高等学校)に入学するが、12月には家の都合で中退。
明治33年(1900年)16歳
父が家業の造り酒屋をたたみ、操業間近な八幡製鉄所に職を求めたため、一家で福岡県八幡村(現・北九州市八幡東区)枝光に転居。茂次郎もしばらく製鉄所で働く。
明治34年(1901年)17歳
家出して単身上京。
明治35年(1902年)18歳
早稲田実業学校専攻科入学。学生時代、スケッチを『読売新聞』などに投書。
明治36年(1903年)19歳
明治37年(1904年)20歳
明治38年(1905年)21歳
友人であった荒畑寒村の紹介で平民社発行の『直言』にコマ絵が掲載される。これは最初に印刷に附された夢二の絵であった。この後、『光』、日刊『平民新聞』に諷刺画などの絵を掲載し、社会主義者らとの親交も深めた。同年6月、『中学世界』に『筒井筒』が第一賞入選、このとき、初めて夢二を名乗る。早稲田実業学校専攻科中退。
明治39年(1906年)22歳
童話雑誌『少年文庫』の挿絵を描く。
明治40年(1907年)23歳
岸たまきと結婚。読売新聞社に入社し時事スケッチを担当。
明治41年(1908年)24歳
長男・虹之助誕生。
明治42年(1909年)25歳
たまきと協議離婚。この年、最初の著書『夢二画集-春の巻』発刊、ベストセラーとなる。
明治43年(1910年)26歳
たまきと再び同棲し、その後、二児をもうける。大逆事件関与の容疑で2日間拘留される。夏、房総方面に旅行『宵待草』を発想。
明治44年(1911年)27歳
次男・不二彦誕生、たまきと別居。月刊『夢二 ヱハガキ』発売。
明治45年(1912年)28歳
雑誌『少女』誌上に、“さみせんぐさ”の筆名で『宵待草』原詩を発表。、京都府立図書館にて「第一回夢二作品展覧会」。
大正2年(1913年)29歳
11月 絵入り小唄集『どんたく』出版、その中の一節に『宵待草』を現在の三行詩で発表。
大正3年(1914年)30歳
日本橋呉服町に「港屋絵草紙店」を開店、来店した笠井彦乃と出会う。
大正4年(1915年)31歳
婦人之友社より雑誌『子供之友』、『新少女』創刊、絵画主任として挿絵を描き始める。たまきとは離別。
大正5年(1916年)32歳
2月、三男の草一が生まれる。セノオ楽譜『お江戸日本橋』の表紙画、以降270余点を作画する。東京を離れ、京都二寧坂に転居。草一、よそへやられる。
大正6年(1917年)33歳
高台寺近くに移り彦乃と同棲。金沢旅行中、「夢二抒情小品展覧会」を開く。
『宵待草』に宮内省雅楽部のバイオリニスト多忠亮が曲をつけ、芸術座音楽会にて発表。
大正7年(1918年)34歳
『宵待草』セノオ楽譜から発刊、これを機に全国的なヒットとなる。長崎方面に旅行。彦乃入院、東京に戻る。
大正8年(1919年)35歳
寄宿先の本郷・菊富士ホテルにてモデルのお葉を紹介される。日本橋三越にて「女と子供に寄する展覧会」
大正9年(1920年)36歳
彦乃25歳で病没。『長崎十二景』、『女十題』のシリーズ制作。
大正10年(1921年)37歳
お葉(夢二が名付ける・本名は佐々木カ子ヨ)と渋谷に所帯を持つ(6年後には離別)。福島・会津を旅行、各地で展覧会。
大正11年(1922年)38歳
春、山形方面へ旅行、滞在。夏、不二彦と富士登山。
大正12年(1923年)39歳
恩地孝四郎らと「どんたく図案社」を発足するも、関東大震災(大正関東地震)で潰滅。友人で画家の有島生馬とともに震災後の東京を歩き、スケッチ21枚を「都新聞」に『東京災難画信』として寄稿連載。
大正13年(1924年)40歳
アトリエ兼自宅・少年山荘(山帰来荘)を東京府荏原郡松沢村松原(現・東京都世田谷区松原)に建設。
大正14年(1925年)41歳
作家・山田順子と交渉を持ち、お葉は去る。後、順子とも別れる。
大正15年(1926年)42歳
このころから、海外旅行を希求する。
昭和2年(1927年)43歳
『都新聞』に自伝絵画小説『出帆』を連載。
昭和3年(1928年)44歳
母・也須能、没(享年72)
昭和4年(1929年)45歳
昭和5年(1930年)46歳
4月、群馬・伊香保温泉に約1ヶ月滞在、「榛名山美術研究所」の構想を練る。
昭和6年(1931年)47歳
父・菊蔵、没(享年79)。渡米告別展を新宿三越他で開催の後、5月7日に横浜を出航し、ホノルルを経由して渡米。
昭和7年(1932年)48歳
前年より米国に1年3ヶ月の滞在、西海岸各地にて個展を開くが、米不況もあり受け入れられず不調。
9月にパナマ運河-大西洋を経て渡欧。約1年の滞欧中、ドイツ・チェコ・オーストリア・フランス・スイスの諸都市を巡り、日本の雑誌に寄稿し、多くのスケッチ画を残す。
昭和8年(1933年)49歳
ベルリンに滞在の後、8月19日ナポリを発ち、9月18日、神戸に帰国する。10月26日、台湾を訪れ講演し、「竹久夢二画伯滞欧作品展覧会」を開催。11月11日、帰国、結核を患って病床につく。
昭和9年(1934年)50歳。実際には満49歳11ヶ月で逝去。
1月19日、親しい文芸仲間でもあった正木不如丘院長の手配により、長野県八ケ岳山麓の富士見高原療養所に入院。9月1日早暁、「ありがとう」の言葉を最後に死去。49歳没。有島生馬らにより東京・雑司ヶ谷霊園に埋葬される。戒名「竹久亭夢生楽園居士」
(出典元:wikipedia, http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E4%B9%85%E5%A4%A2%E4%BA%8C)
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