観照空横山大介展「観照空蓮房横山大介―Da.Da.Da.―」

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会 期
20240403日 -  20240426
開催時間
10時00分 - 15時00分
事前のメールでの予約をお願いします。(当日、前日の予約はご遠慮ください。またいくつか候補を挙げてくださると助かります。)
予約は kurenboh.com よりお願いします。
*1時間単位で予約を承ります。空間内へは1人ずつです。(1枠2人くらいまで)
休み
日曜日,月曜日,火曜日,土曜日
土日曜日は法務のない場合のみ予約を承ります。
入場料
有料
賽銭制
この情報のお問合せ
空蓮房 東京都台東区蔵前4−17−14 長応院内
情報提供者/投稿者
開催場所
空蓮房
住所
〒111-0051 東京都
台東区蔵前4-17-14 長応院内
最寄り駅
蔵前
電話番号
-

詳細

参加クリエイター

展覧会内容

「霊性と表象」横山大介展へ
人間を人の間と書くように、日本人は自己と他者の二元論で語ることよりも間に潜む階調や無常観に美しさを見出す。背景には「万物、縁という関係性で事象、時空が成り立って現象している」という仏教思想の影響から「何も確定できなく、無常として在るのみ」と言い、「すべては空(クウ)であり、現実は自己の心のスクリーンとして現れている」とも説く。ことの表現に言葉、記号やイメージで仮初に表したところでそれらも無常である。個の認識も不確定であり、取り持つ関係性が頼りの綱だろうが、最終的にはそれをも超えることが重要であろう。

言葉やイメージは真実ではないが、声は身体から表出される呪文とも言える。物事を伝達する意図があろうとどのような音域でどんな波長で無意味であれ各々身体から音を発するのだ。体験的薫習で蓄積された真意は社会との間に形を伴って表現を試みないと自他のコミュニケーションが成立しないかもしれないが、といって言葉もイメージも実体がない。互いの認識下に共有する何かによってそこの差異があろうとも認めなければならない寂しさもある。伝えなければならない、けれど伝わらないは世の無常でもあり、思うようにはならない道理である。
ブッダの譬え話に「拈華微笑」がある。弟子に向け一本の蓮の花を差し出し「分かったか」と尋ねると、ある弟子は「分かった」と答え、ブッダはニヤリとしたという話だ。
言葉をロジックに構えるとこのような話は解決不可能であろう。しかし、心を説く仏教ならではの問答で心から心へと通ずるものがある。それは身体の霊性のやりとりかもしれない。つまり本当のことは言葉やイメージでは通じないのであろう。個々の認識も無常だ。

横山大介は吃音者でありポートレートをメインとする写真家だ。その作風は決してドラマチックな表現でもなく被写体となった人物の特徴を見出そうと努めるようでもない。成果主義に彼の本意があるものでもない。現場での対話が吃音の壁を超えようと自他の間が互いの心理状態をつくる緊張した場の空気を想像してしまう。だが、彼は「あなたがいるから僕がいるのだ」という謙虚な態度で接する。確かに「縁起」という自他同一に現象を起こしているという考え方からすればもっともな考え方だ。そして、あなたはこの私を受け入れてくれるか、というある意味ではセルフポートレートとして表出される。互いの自他同命の因果の受諾の慈悲の結果として、彼は写真という仕組みに心身を委ねる。そこにはアウラが確かに存在する。

言葉やイメージを生み出す霊性は物的身体を超え自他の共振をも超えて真実を掴むことだろうし、彼は一生懸命にそれを掴もうとする者ではないだろうか。今日、生成AIの混迷闇夜の行方にあっては生々しい努力かもしれないし、今や身体の霊性は確保しなければならない要素である。身体的感性は自他相互の間に神妙に伝達し合う。彼は自他の問答を繰り返し超えてゆかんとするのかもしれない。薫習される身体の霊性の獲得は人間の智慧の領域であり、人間の証として、人が人として我らが世界を知覚する根源領域だろう。そこには身体性と表象のフラジャイルな関係がある。
このことは、現世の姿の虚無を表し唯物的には本当のことを語れないものだということをつくづく思う。自我は虚無を生み、また逆もしかりだろう。その迷路を探る入り口に今回は立たされているのである。儚くも私たちは、一個の生命体として孤立していないという宿命の中にいることは受け止めておかなければならないであろう。全ては滑らかな虚実の受諾から始まり、虚無に帰す。然れども自他間の霊性にこそ人間の活動の美しさを見ることができるだろう。真実はその美しさで覆われている。               

空蓮房

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