画鬼・暁斎-KYOSAI 幕末明治のスター絵師と弟子コンドル

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会 期
20150627日 -  20150906
開催時間
10時00分 - 18時00分
(祝日・振替休日除く金曜のみ20:00まで)※入館は閉館の30分前まで
休み
月曜休館(但し、祝日の場合は開館/8月31日は18時まで開館)
この情報のお問合せ
お問い合わせ:03-5777-8600(ハローダイヤル)
情報提供者/投稿者
開催場所
三菱一号館美術館
住所
〒100-0005 東京都
千代田区丸の内2-6-2
最寄り駅
東京
電話番号
050-5541-8600(ハローダイヤル)

詳細

展覧会内容

河鍋暁斎(かわなべ きょうさい、1831-1889)は、幕末に生ま れ、6歳で浮世絵師歌川国芳に入門、9歳で狩野派に転じて その正統的な修業を終え、幕末明治に絶大な人気を博した 絵師です。一方、三菱一号館を設計した英国人建築家ジョ サイア・コンドル(Josiah Conder, 1852-1920)は、明治政府 に招かれ明治1(0 1877)年に来日、日本の近代建築に多大な 功績を残しました。彼は日本美術愛好家でもあり、暁斎に弟 子入りして絵を学び、師の作品を海外に紹介しました。本展 では、三菱一号館美術館開館5周年を記念し、2人の交流や コンドルの業績と、彼の敬愛する暁斎のユーモラスで型破 りな画業を、展示替えを行いながら、多彩なジャンルの国 内外の名品約120点によってご覧いただきます。

前期:6月27日~8月2日、後期:8月4日~9月6日

《みどころ》
■河鍋暁斎とジョサイア・コンドルの師弟愛
三菱一号館を設計した英国人建築家ジョサイア・コンドルと、幕末明治の人気絵師・河鍋暁斎の師弟愛を しのびます。

―コンドルと暁斎の接点 明治14(1881)年、上野で開催された第2回内国勧業博覧会では、29歳のコンドルが会場の上野博物館の本館を 設計しました。このときの上野公園を見渡すにぎやかな景色を、暁斎が《東京開化名所 上野山内一覧之図》に 描きました。コンドルはこの建物をイスラム様式で設計しましたが、帽子のような特徴的なドームを、暁斎の錦 絵に見ることができます。 この博覧会は、産業奨励を目的とした商品見本市であるとともに、美術公募展でもありました。暁斎はこの博覧 会に4点の作品を出品し、そのうち《枯木寒鴉図》が、絵画の分野で最高賞にあたる妙技二等賞を受賞していま す。ユーモラスな戯画で広く知られた暁斎でしたが、正統的な肉筆画でも高く評価される機会となったのです。 この年、コンドルは50歳の暁斎に弟子入りしています。おそらく博覧会の出品作品を観たことが、きっかけに なったのでしょう。

―コンドルと暁斎の交流 コンドルと暁斎の交流はとても親密なもので、二人は何度か写生旅行に出かけています。明治18(1885)年8月1 日の《暁斎画日記》には、彼らが上野駅で待ち合わせて日光方面に旅立つ姿が描かれています。暁斎の《日光地 取絵巻》をみると、様々な名所旧跡を回り、とくに彼が日光の滝に注目して描いていたことがわかります。また、 このとき宿で絵を描く暁斎の姿を描いた、コンドルの写生が残されています。

―ジョサイア・コンドル旧蔵の暁斎作品 二曲一隻となる屏風絵《大和美人図屏風》は、暁斎53~54歳の作品です。本作は、弟子のコンドルが自国に持ち帰る ことを想定し、暁斎が「およそ6ヶ月もの間精力を集中して描き上げたもの(」コンドル著「河鍋暁斎」)であり、背景の 屏風には日本の稲作の様子が丁寧に描かれ、漆器や畳など日本独特の文化が余すところなく描き込まれています。 コンドルは、師からの贈り物を生涯大切にしました。現在は京都国立博物館に寄託されています。
暁斎の没後、コンドルは暁斎の人生と業績 をたたえた“Paintings & Studies by Kawanabe Kyosai(”「河鍋暁斎」)を出版 し、口絵に本作を唯一のカラー図版として 使用しています。また、この本により、暁斎 の名は西洋で広く知られるようになりまし た。 《大和美人図屏風》は前期【6月27日~8月2 日】のみの展示となります。

■「画鬼」と称された暁斎の再評価

 幕末から明治期に活躍し、正統的な狩野 派を引き継ぎながら、浮世絵や江戸期の 諸派をも取り込んだ絵師・河鍋暁斎のユ ニークで型にはまらない幅広い画業を、多 様なジャンルの作品によって紹介します。

―国芳に弟子入り 2歳ですでに蛙を写生するなど、絵に早熟 な才能を示した周三郎(暁斎の幼名)は、6 歳で浮世絵師の歌川国芳(1797-1861)に弟 子入りします。このとき国芳40歳、すでに 武者絵で絶大な人気を誇っていました。周三郎の画才はすぐに国芳の認めるところとなったようです。周三郎は事 情があって2年ほどで国芳の許を離れますが、西洋画に至るまで貪欲にとりこんで旺盛に制作する態度、写生の重 視、絵師としての反骨の姿勢など、国芳から多くのものを学んだようです。

―狩野派に入門 9歳頃に周三郎は駿河台狩野家に入門しま す。絵に熱心な周三郎を「餓鬼」にかけて 「画鬼」と呼んだのは、師の前村洞和愛徳 (まえむら とうわあいとく)でした。ここで 粉本(手本)に基づく狩野派の正統的な型 をみっちりと学び、熱心な学習の甲斐あっ て18歳という早さで「洞郁陳之(とういく の りゆき)」の号をもらい修業を終えました。 その前年に描いた《毘沙門天之図》には、 その技量の高さを見ることができます。

―画鬼のエピソード 珍しいものを描きたいと願い、また描くことに夢中になってしまう 暁斎にまつわるエピソードは、数え上げるときりがありません。8歳 の周三郎は梅雨で増水した川面を描こうと神田川に赴きます。そ こに流れてきたのはなんと男の生首でした。彼はそれを拾って帰 り、自宅に隠して写生の機会を狙っていましたが、家族に見つかっ てしまいます。叱られて川に戻しに行く道すがら、それでも隠れて 写生したそうです。 弘化(3 1846)年(14歳)の正月の大火では、炎やそこに飛び込む鳥 たちの写生に没頭するあまり、自宅が焼失するのも気づかず、ひど く叱られたこともあったようです。 絵師として独立後も、仕事場の近くを通りかかった御殿女中の帯 の模様に感心し、写生するために後をつけ回し、誤解されて酷くひ んしゅくを買ったこともありました『。暁斎画談 外篇』は彼の語っ た伝記をまとめた資料ですが、こうした彼のエピソードが数多く盛 り込まれています。

―多彩な活動 暁斎は、狩野派の仕事もこなしながら、挿絵、錦絵なども手掛けま した。安政(5 1858)年、27歳で「惺々狂斎」と号し、滑稽な戯画を描い て徐々に世間に名を馳せます。明治(3 1870)年、上野不忍池の料亭 で開催された書画会(酒席において書画を頒布する会)で描いた 作品により狂斎が捕えられる事件が起きます。その内容ははっき りしませんが、風刺画で人気を博していた狂斎が、酔った勢いで請 われるままに描いたものが問題とされたようです。暁斎は牢につ ながれ、翌年に放免されます。狂斎はこれを機会に号を「暁斎」と 改め、ふたたび活動を続けます。

■英国人が愛した暁斎作品 ~メトロポリタン美術館所蔵 およそ120年ぶりの里帰り
本 展では、およそ100年前に海外に渡った本作品の里帰りに合わせ、その元となった河鍋暁斎記念美術館所蔵の《英国 人画帖下絵》とともに展示します。制作の舞台裏やそのルーツを探るまたとない機会となるでしょう。

主催・協賛・後援

主催:三菱一号館美術館、公益財団法人河鍋暁斎記念美術館
共催:テレビ朝日 
企画協力:Ueki & Associés
協賛:大日本印刷

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