豊原國周

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プロフィール
1835年6月30日-1900年7月1日
幕末から明治にかけての浮世絵師
豊原周信及び歌川国貞(三代目歌川豊国)の門人。本姓は荒川氏、俗称は八十八。江戸京橋五郎兵衛町の湯屋(一説には江戸京橋三十間堀七丁目の家主)大島屋九十郎の次男として生まれる。母は同心の荒川三之丞の娘八重。画号は国周の他、一鶯斎、豊春楼、花蝶斎、花蝶楼、華蝶斎、華蝶楼、一桃、歌清舎、曹玄子、米翁、鶯斎。画姓を豊原としたのは、師の豊原周信への恩を忘れぬためだといわれる。幼い頃はかなりやんちゃで近所から苦情が来ていたという。しかし、びら屋で祭礼の際に用いられる地口行灯(もとの言葉を別のものに仕立てて楽しむ言語遊戯、つまりは語呂合わせである地口を、絵で行灯に描いてある。祭礼時に町の辻に飾ることが流行し、その絵の多くが浮世絵師によって描かれた)の制作の手伝いをするなど、画才を示していた。兄の長吉が南伝馬町に押絵屋を開業したことがきっかけで、長谷川派の豊原周信に師事し役者似顔を学び、羽子板押絵の原図を制作した(一説には羽子板師の隣春に就いたともいわれる)。数奇屋河岸にあった羽子板問屋明林堂の仕事を引き受け、その役者絵は評判が良かったという。国周の墓所である本龍寺には、現存してはいないが押絵師湯川周丸を発起人とした国周の辞世句「よの中の人の似かおもあきたれば ゑむまや鬼の生きうつしせむ」を刻んだ碑があったといわれるので、終生羽子板絵とのかかわりが保たれたのだろう。
(出典元:Wikipedia, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%8E%9F%E5%9B%BD%E5%91%A8)
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