瀧口修造

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プロフィール
1903-1979
詩人、美術評論家。シュルレアリスムの理念を体現し、戦前・戦後を通じ日本における前衛芸術運動の理論的・精神的支柱として、多くの芸術家の活動を鼓舞し続けた。内外の造形作家と詩画集を共作したほか、自らも多数の造形作品を残している。1903年、富山県に生まれる。幼少期からウィリアム・ブレイクに傾倒し、慶應義塾大学英文科在学中に、西脇順三郎を通じてシュルレアリスムを知り、『シュルレアリスム宣言』、『磁場』などに影響され、実験的な詩的テクストを発表するとともに、ブルトン『超現実主義と絵画』を全訳した。1931年に卒業後、映画製作所PCL(東宝の前身)にスクリプターとして勤務する傍ら、美術評論活動を開始した。海外のシュルレアリストたちと文通を続け、ブルトンやエルンスト、ダリの著作などを翻訳・紹介、1937年には山中散生とともに「海外超現実主義作品展」を開催した(記念出版『アルバム・シュルレアリスト』も編集)。「超現実造型論」「前衛芸術の諸問題」などの美術評論だけでなく「写真と超現実主義」「物体と写真」などの写真評論も執筆し、画壇に属さない前衛美術家・写真家たちの研究・発表グループを理論的に指導した。しかしこうした活動は、国際共産主義運動に関係する危険なものと見なされて、1941年春から7ヶ月余り特高によって拘留され、中断を余儀なくされた。

戦後は読売新聞などに多くの美術評論を発表し、時代を代表する美術評論家として活動した。タケミヤ画廊の企画を委嘱され、208回に及ぶ展覧会を開催して、多数の若手美術家に発表の機会を設ける一方、1951年に結成された「実験工房」の活動にも顧問格として関与するなど、清廉な人柄も相俟って影響力は絶大であった。

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1958年、ヴェネチア・ビエンナーレのコミッショナーとして訪欧、イタリアの彫刻部門の代表だったフォンターナを高く評価して絵画部門で票を投じた後、欧州各地を訪問し、ブルトン、デュシャン、ダリ、ミショーらと面会した。帰国後、時評的な美術評論の発表が減少する一方、展覧会序文などの私的な執筆が増加した。公的な役職を辞任する反面、赤瀬川原平の「千円札事件」(1965~1970年)では特別弁護人を積極的に引き受けている。ミロ、サム・フランシスなど、多くの造形作家と詩画集を共作したほか、自らもドローイング、水彩、デカルコマニー、バーント・ドローイング(焼け焦がした水彩)、ロトデッサン(モーターによる回転線描)などの、独特な手法の造形作品を制作し、個展も数回開催している。1967年には戦間期の詩的テクストを集成した『瀧口修造の詩的実験 1927~1937』を刊行した。夢の記録の形をとった散文作品や、諺のような短いフレーズの作品も残している。自ら構想したコンセプチュアルな「オブジェの店」に対して、上記の訪欧後も文通を続けていたデュシャンから「ローズ・セラヴィ」の名を贈られた。この返礼に『マルセル・デュシャン語録』を刊行(1968年)、その後もデュシャン研究を継続し、「大ガラス」の一部を立体化したマルティプル『檢眼圖』も制作している(東京ローズ・セラヴィ、1977年。造形作家岡崎和郎との共作)。1979年に心筋梗塞のため没した。(執筆:土渕信彦)
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