米田知子 暗なきところで逢えれば
開催概要
開催内容
はじめに「道」という作品を見てみましょう。その作品を見た時、例えば絵画に描かれる風景と同じように、特に何ということはない、ありふれた光景に美しさを見出して描写していると感じられるのではないでしょうか。しかし、作品のタイトルが「道-サイパン島在留邦人玉砕があった崖に続く道」であると知った時、作品の印象は一変するはずです。
この作品は先の大戦末期(1945年)に藤田嗣治が戦争記録画として描いた「サイパン島同胞臣節を全うす」に触発されたものといいます。とはいえ、藤田の玉砕を描いた情景(画集などで是非確認してみてください)と「道」の情景の差異に愕然とします。
米田の作品を一見したところでは、身近な日常を感じさせるような光景の連なりに見えるかもしれません。その穏やかな空間にタイトルという切れ目を入れ、そこに潜む歴史的意味を浮かびあがらせます。とはいえ米田は、歴史事象を絵解きするように写すわけではなく、社会的メッセージを声高に叫ぶ様子もありません。そこであったはずのことをほのめかすだけです。しかしそれが故に、作品に見えている凪いだ光景と、歴史や記憶の重みの間を、見た者はさまよい、さまざまに思いを馳せることとなります。
展覧会タイトルの「暗なきところで逢えれば」とは、ジョージ・オーウェル『1984年』の一節です。全体主義的な管理社会の恐怖を描いた小説の中で、常時監視を受ける状況下に主人公が発しています。そして同書の中の別の部分を米田は引用します。「それは見えているのだが、見えていないということと同じかもしれない。見えないということは見えているということに等しいかもしれない」。
ここには米田の創作に常に横たわる問題意識が表されています。表面的には見えているということ、しかしそれは同時に何かが見えていないこと、そして時には見ることを避けていることと背中合わせのことかもしれません。(表面的な)イメージはわたしたちにとって不可欠なものですが、そのあまりにストレートな見え方は時に大事なことを忘れさせてしまう道具と化してしまいます。
不可視のものを、白日に晒すのではなく、垣間見せるようにありふれた様子で見せる米田の作品を一瞥で理解するのは難しいかもしれません。しかし、それだからこそ作品それぞれを噛みしめるように「見る」ことで、そこに積み重ねられた歴史や、人々の記憶の集積に思いを至らせ、そして「見えていない」ということをリアルに感じることができます。