日本イタリア国交樹立160周年記念/フォンタネージ来日150周年記念 フォンタネージ ――イタリアの光・心の風景
開催概要
- 会期
- 2026年10月17日 〜 2027年01月24日
- 会場
- 三菱一号館美術館 (東京都千代田区丸の内2-6-2)
- 参加クリエイター
- アントニオ・フォンタネージ
- ジャンル
- アート
- タグ
- 絵画
開催内容
あなたはアントニオ・フォンタネージという画家を知っていますか?
全く知らない、という人もいるでしょう。美術に関心のある方ならば「明治時代に西洋絵画を教えたお雇い外国人」と答えるかもしれません。また洋画に詳しい方ならば浅井忠や小山正太郎の先生としての姿や、高橋由一との交友を思い浮かべるかもしれません。こうした反応が示すのは、第一にフォンタネージの名前が十分に知られていない、ということ。そして知っている人にとっても、お雇い外国人としてのイメージが強い、ということです。
英雄ガリバルディの下でイタリア独立戦争に身を投じた兵士。ジュネーヴの都市風景を巧みに表した石版画家。パリのサロンに作品を発表し、当地でミレーやコローを研究するモダンな画家。ロンドンに滞在して版画を制作しつつ、ターナーやコンスタブルを吸収する旅人。フィレンツェの若手画家たちに信頼されるベテラン。南仏の田舎道を友人と歩く風景画家。トリノでも東京でも教え子から慕われる教育者。これらはすべて、「アントニオ・フォンタネージ」というひとりの人間の側面です。何度も同じ主題を取り上げつつ、理想の風景を絵画にしようとする姿勢、都市の忙しさや農村の労働に対する真摯な眼差し、そして何よりも、光と自然に対する貪欲な関心̶̶作品に目を凝らせば、「モティーフを高らかに歌わせよ!(La faccia cantar alto il suo motivo!)」と弟子たちに説いたフォンタネージの姿が見えてきます。フォンタネージを全く知らない人にとってはもちろん、名前を聞いたことがある人にとっても新しい。そんな風景画の旅が、いま、幕を開けます。
[みどころ]
1.イタリア近代風景画の巨匠フォンタネージの日本初の大回顧展
初期から晩年に至るまでの油彩画や、スイスや英国を旅して制作した版画などを含む約200点により、お雇い外国人に留まらないフォンタネージの魅力が明らかに!
2.フォンタネージ来日から150年を経て、師と弟子たちの作品が集結
イタリアから来日する作品群に加え、国内の美術・博物館所蔵のフォンタネージ作品、浅井忠、小山正太郎ら弟子たちの作品も一堂に会する貴重な機会
3.20世紀イタリアの芸術家たちにも影響を与えたフォンタネージの先進性を検証
セガンティーニやカルロ・カッラなど、後世の画家たちへのフォンタネージの遺産を検証する意欲的な企画
[展示構成]
第1章:「絵画」としての風景(1850‒1860年)
故郷レッジョ・エミリアで美術の専門教育を受けたフォンタネージは、第一次イタリア独立戦争に参加した後、スイスのルガノ、次いでジュネーヴに拠点を移しました。美的な構図と「ピクチャレスク」な景色の追求から、風景画家・フォンタネージの歩みが始まります。
第2章:心をうつす風景(1855‒1875年)
1855年、バルビゾン派の画家トロワイヨンとともにパリ万博を訪問したフォンタネージは、コローや他のバルビゾン派の画家の作品に触れる機会を持ちました。これをきっかけのひとつとして、フォンタネージは自然に忠実であるだけでなく、繊細かつ抒情的な気分を取り入れた絵画の制作をはじめます。
第3章:都市の風景(1854‒1880年)
スイスへの移住、英国滞在、イタリア各地への旅の中で、フォンタネージは都市の風景に目を向けます。
ジュネーヴ市内に取材したリトグラフに始まるフォンタネージの都市風景は、アルバム『ロンドンのスケッチ』でより洗練され、イタリアの外光派・マッキアイオーリの画家たちとの交友を育んだフィレンツェ滞在、アルベルティーナ美術アカデミーへの招聘を契機としたトリノへの移住を経て、彼の都市への関心はさらに強化されました。
第4章:日々の仕事と自然(1860‒1875年)
パリのサロンへの出展を通して、ローザ・ボヌールやジャン=フランソワ・ミレーらの絵画に触れたフォンタネージは、1860年ごろから次第に日常生活や社会に根差した主題の探求をはじめます。
農民や家畜、そして人間と自然の関係に重きを置いたフォンタネージの作品は、彼の画業における重要な転換点を示しています。
第5章:一瞬の光を描いて(1867‒1880年)
フォンタネージは光の変化を感情の起伏と結びつけました。雲が太陽を遮った瞬間、平原に虹色の光が放たれるその一瞬を切り取った《四月》、日没時の光の変化に従って風景が変容していく様を描いた沼地の連作̶̶気象と光の移ろい、そしてその効果に着目し、不安定かつ神秘的な自然を、フォンタネージは丹念に絵画化します。
第6章:日本での制作と教育(1876‒1878年)
明治政府により設立された工部美術学校の画学教師に任命されたフォンタネージは1876年8月頃に東京に到着しました。およそ2年後の1878年秋、健康上の理由や学校の改革の頓挫等により帰国したフォンタネージでしたが、体系的な教育の試みや熱心な指導は、女子生徒を含む教え子との間の実りある対話と信頼関係をもたらしました。浅井忠、小山正太郎、松岡壽をはじめとする生徒たちは師の教えを様々に昇華し、その後の洋画の基礎を築きます。
第7章:晩年の作品(1878‒1881年)
帰国後、フォンタネージはアルベルティーナ美術アカデミーでの仕事を再開します。しかし、1880年のトリノ国民美術博覧会に出品された大作《雲》は、本人の自信とは裏腹に敵意のある批評にさらされてしまいます。晩年のフォンタネージは、今まで吸収したコローやターナーの教訓を再解釈し、「真実」の風景を追い求めます。
第8章:フォンタネージの遺産(1872‒1928年)
風景へのまなざし、人間と自然との関係、空気と光の描写̶̶フォンタネージの死後、彼の芸術的遺産は次世代の芸術家に受け継がれます。彼の指導を受けたエンリコ・レイチェンドや没後の回顧展に関与した彫刻家レオナルド・ビストルフィ、豊かな抒情性を継承したミラノのスカピリアトゥーラ運動の画家たち、モティーフの面でその遺産を展開させたジョヴァンニ・セガンティーニやジュゼッペ・ペリッツァ・ダ・ヴォルペード、顕彰と評価によって敬意を表したカルロ・カッラやフェリーチェ・カゾラーティ。かたちは様々ですが、多くのイタリアの芸術家の作品に、フォンタネージの遺したものは息づいています。