開催時間 |
10時00分 - 17時00分
入館は16時30分まで |
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休み |
月曜(9/17、9/24、10/8は開館、9/18(火)、9/25(火)、10/9(火)は休館)
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入場料 |
有料 一般800円(640)、高大生600円(480)、中学生以下無料 ※20名様以上の団体はカッコ内の割引料金 ※障がい者手帳ご呈示の方、および付添人1名様まで無料 |
展覧会の撮影 |
不可 |
作品の販売有無 |
展示のみ
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この情報のお問合せ |
泉屋博古館分館
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情報提供者/投稿者 |
住所 |
〒106-0032 東京都
港区六本木1-5-1 |
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最寄り駅 | 六本木一丁目 |
電話番号 | 050-5541-8600(ハローダイヤル) |
“近代日本画の父”狩野芳崖の4人の高弟〈岡倉秋水、岡不崩、高屋肖哲、本多天城〉。彼らは芳崖の晩年に師事し、芳崖の絶筆《悲母観音》の制作を間近で目撃しています。その後入学した東京美術学校では「芳崖四天王」と称され、一目置かれる存在でした。
本展は、知られざる芳崖四天王の人と画業を紹介します。また師・芳崖を中心に、狩野派の最後を飾る画家たちの作品や、四天王と同じ時代を生き、岡倉覚三(天心)と共に日本画の革新に挑んだ横山大観、下村観山、菱田春草らの作品が一堂に会し、芳崖の創った多様な近代日本画の水脈を辿ります。
第一章 狩野芳崖と狩野派の画家たち―雅邦、立嶽、友信―
室町時代以来、400年以上にわたって画壇の覇者であった狩野派は、江戸幕府の崩壊とともに終焉を迎える。将軍家をはじめ、諸大名家の御用絵師として日本全国に行き渡ったその勢力は、庇護者を失うことで衰退の一途を辿ることとなった。
長府藩御用絵師の家に生まれ、将来を約束されていた狩野芳崖(かのうほうがい)(1828~1888)も例外でなく、禄を失った維新後しばらくは辛酸をなめるが、転機が訪れる。明治15(1882)年の第一回内国絵画共進会において、お雇い外国人アーネスト・F・フェノロサ(1853~1908)に見出され、以降は、フェノロサとともに日本画革新運動を実現化すべく作品の制作に励み、おもに鑑画会において発表した。畢生の大作であり、近代日本画の歴史における記念碑的作品《悲母観音》をはじめ、数々の実験的とも言える作品を生み出した芳崖は、近代を代表する画家として筆頭に挙げられるだろう。
本章では、芳崖のほかに木挽町狩野家で共に切磋琢磨した橋本雅邦(はしもとがほう)(1835~1908)、木村立嶽(きむらりつがく)(1828~1890)、狩野友信(かのうとものぶ)(1843~1912)の名品をあわせて紹介することで、狩野派の正統を受け継ぎながら、近代日本の黎明期を生き抜いた輝かしい模索の足跡を紹介する。
第二章 芳崖四天王―芳崖芸術を受け継ぐ者―
「芳崖四天王」とは、狩野芳崖の高弟である岡倉秋水(おかくらしゅうすい)(1867~1950)、岡不崩(おかふほう)(1869~1940)、高屋肖哲(たかやしょうてつ)(1866~1945)、本多天城(ほんだてんじょう)(1867~1946)の4人を指す。4人は最晩年の芳崖に師事し、早くから鑑画会を舞台に活躍するなど、日本画の新しい担い手として将来を嘱望されていた。また彼らは妙義山の写生旅行に同行し、絶筆《悲母観音》の制作を間近で目撃するなど、芳崖芸術の正当な継承者として目されていた。しかしながら、明治21(1888)年に師を病で亡くした後は、東京美術学校に入学するものの、次第に画壇と距離を置き、それぞれ表舞台から姿を消していく。
四天王は芳崖没後も変わらず師の教えを信奉し、芳崖芸術の墨守に重きを置いている。彼らは積極的に師の顕彰に努め、またその制作には芳崖の影響―画題、図様、筆遣いや色彩感覚など―を多分に感じることができる。このような四天王の活動とその存在は、芳崖から東京美術学校、日本美術院へと続く革新的な近代日本画の流れとは異なる「もうひとつの水脈」を形成し、近代日本画の多様性を示す。四天王の画業を辿ることで、芳崖が遺したもの、そして明治維新により終焉を迎えた狩野派のアフターストーリーを見つめ直す。
第三章 芳崖四天王の同窓生たち=「朦朧体の四天王」による革新画風
狩野芳崖亡きあと、フェノロサと岡倉覚三(天心、1863~1913)が牽引した日本画革新を担ったのは、第一章で紹介した橋本雅邦であった。明治22(1889)年に開校した東京美術学校で雅邦が指導したのは芳崖門下の四天王の他に、ここで紹介する横山大観(よこやまたいかん)(1868~1958)や菱田春草(ひしだしゅんそう)(1874~1911)、下村観山(しもむらかんざん)(1873~1930)、西郷孤月(さいごうこげつ)(1873~1912)、木村武山(きむらぶざん)(1876~1942)らであった。
狩野派の筆法を基礎に西洋画の表現法を加味した雅邦の制作は、美校で学ぶ若き彼らに大きな影響を与えたが、なかでも大観、春草、観山、孤月の四人は在学中はもとより、さらに明治31(1898)年に在野となった覚三と雅邦らが新たに創立した日本美術院でも、さらに革新的な日本画創造の実験に取り組んだ。覚三が示した「日本画で光を描け」という示唆に対して大観らが編み出したのが没線・主彩による「朦朧体」と呼ばれた表現であった。
当初、朦朧体は輪郭がはっきりせず表現目的が不可解であるなどと批難され、大観・春草・観山、孤月(のち武山に代わる)らは「朦朧体の四天王」などとも揶揄された。だが、明治30年代から末期まで続けられた朦朧体改良の試みは、やがて次代の日本画の基盤になるような変容を遂げることになる。
ここでは、「芳崖四天王」の同窓であり、従来の近代日本画史の上で主流と記されてきた「朦朧体の四天王」たちの作品を紹介する。
※会期中、展示替えがあります。
前期:9月15日(土)~10月8日(月・祝) 後期:10月10日(水)~10月28日(日)
■ゲスト・ギャラリートーク
9月22日(土)15時~16時
ゲスト:椎野晃史(福井県立美術館 学芸員)
■夕やけ館長のギャラリートーク
9月15日・29日、10月13日・20日(各土)15:30~16:30
ナビゲーター:野地耕一郎(泉屋博古館分館長)
■ロビー・コンサート バッハ無伴奏チェロ組曲、ほか
当日10時より入場された方一名につき一枚、座席指定付整理券を配布。
10月6日(土)17時~18時 (ロビーにて)
奏者:茂木新緑(N響団友・チェリスト)*ARK Hills Music Week参加イベント
※すべて予約不要、要入館料
主催:公益財団法人泉屋博古館、読売新聞社、美術館連絡協議会
協賛:ライオン、大日本印刷、損保ジャパン日本興亜
協力:日本通運
助成:芸術文化振興基金
評価サマリ