開廊35周年記念企画展 郭 仁植

開廊35周年記念企画展 郭 仁植
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    会 期
    20180123日 -  20180202
    開催時間
    11時00分 - 19時00分
    休み
    入場料
    無料
    展覧会の撮影
    作品の販売有無
    販売有
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    Gallery Q
    情報提供者/投稿者
    開催場所
    Gallery Q
    住所
    〒104-0061  東京都
    中央区銀座1-14-12 楠本第17ビル3F
    最寄り駅
    銀座
    電話番号
    03-3535-2524

    詳細

    参加クリエイター

    展覧会内容

    Korean Diaspora Artists/郭仁植 

    郭仁植は何故日本の地を選び亡くなったのか、私は時折思い出すことがある。

     1986年12月27日都立府中病院胸部外科にて郭仁植の癌が発見され、1988年3月3日東京、板橋の誠心会病院
    にて亡くなられた。(68歳) 3月2日の夜遅く、私は郭仁植の奥様、小俣智子(1994年死亡)から電話を受
    けて横浜の自宅から稲城市の郭仁植のスタジオに車で駆けつけた。その日病気が急転し、救急車を手配し、病
    院に向かった。稲城市、府中市、調布市と東京郊外の近くの病院に問い合わせたが、何処もベッドの空きがな
    く、受け入れてもらえなかった。結果稲城市から車で2時間近くもかけて、東京都内の板橋の病院に向かった。
    けれどもその病院も同じくベッドの空きがなく、仕方なく階段の下の隙間にカーテンで仕切られただけの小部
    屋に連れ込まれた。本当にベッドの空きがなかったのか定かではないが、私には郭仁植が韓国人であったこと
    も病院側の断る理由だったかもしれないと思った。その夜、郭仁植は衰弱した身体で何度も「起こしてくれ」
    と叫び、胸の奥から激しく“ゼイゼイ”と息を吐いていた。そして翌日午後7時50分さらに病状は悪化し、酸素
    マスクが口にあてられた。郭仁植の胸が大きく上下し膨らんでは縮んだ。3人の主治医と4人の看護婦は病院
    中から色んな器具を運び、手当をした。最後に郭仁植は小さな声で「ありがとう」と私に感謝を発し、最後に
    右手を高く上げて「アイゴ~」と叫んだ。その後、脈拍数が200までカウントされて、その後一気に0の数字を
    指した。数度電気ショック療法も試みたが奥様が耐えかねて「これ以上止めて下さい」と叫び、ベッドの下に
    ずり落ちた。そして午後8時15分、郭仁植はこの世から息を引き取った。死の直後、通常は亡くなったその日
    は安置し、翌日に運ぶものだが、病院側はすぐに郭仁植の身体を持ち上げ、持ち帰るよう私たちに言った。
    その扱いはまるで荷物のような扱い方に私は怒りを覚えた。そして看護婦たちが郭仁植の身体を持ち上げ、運
    ぼ うとしたその時に私は自分の目を疑った、真っ白なシーツの上に郭仁植の首から外れた点滴のパイプが逆流
    し、 シーツの上に流れだしていたのだ。その血の跡は40cmもあっただろうか、深紅の大きな一つの点になっ
    ていた。

    戦前、戦中、戦後を日本で生き抜いた芸術家、郭仁植の歴史は韓日の不幸な歴史だったかもしれない。けれども
    彼の東洋的な思想は多くの日本の芸術家たちに、韓国の芸術家たちに受け継がれ、脈々と生きている。点を打ち
    続けた郭仁植の生涯は孤独ではあったかもしれないが、郭仁植は日本の地で、愛する妻である小俣智子のそばで
    息を引き取ることを選択した。身体はベッドから消えたが、そこに偶然に残された、深紅の点は、まぎれもなく
    郭仁植の作品の言葉と重なる。

     「点は点を呼び、点が重なり、点を打つことで超える。」(郭仁植)
     郭仁植は点を打つことで死をも超えようとしたのだった。

     郭仁植は1919年4月19日、韓国慶尚北道達城郡玄風面上洞に生まれた。1937年郭仁植が18歳の時、父親の勧
    めで東京の早稲田大学の商学部に留学のために来日した。けれども郭仁植は父親の意に反して、日本美術学校に
    入学してしまった。1910年に日本が韓国を併合する1年前の1909年に高羲東が東京美術学校(東京藝術大学の
    前身)に最初 の韓国人留学生として入学したことに始まる。郭仁植もまた韓日の不幸な歴史のはざまを過ごし
    ていた。戦後 まもなく郭仁(郭仁植ではなく)と名乗り、本名を隠し東京に在住する。韓国の近代美術史は日
    本帝国主義の 武力によって押し進められた歴史とともに、郭仁植や金煥基といった多くの留学生によって、日
    本経由の西洋 の美術が開花していった、萌芽期の時代でもあった。故にこうした動乱期に青春を日本で過ごし
    た郭仁植にと って、日本は「屈辱」と「希望」という矛盾に苛まれた時代でもあった。また当時李承晩政権の
    反共の弾圧が 強化されていた時代、郭仁植の実兄は朝鮮動乱中、南北朝鮮の統一運動の青年団長という役職の
    ために、韓国 人パルチザンに撲殺された。そしてまた故郷の大邱の叔父が共産主義者と間違われて、処刑され
    ていた。戦前 より日本に在住していた郭仁植は「祖国平和統一・南北文化交流促進文化祭」(1961年4月)
    「連立美術展」 (5月)「合同演劇発表」(7月)「南北文化人による文集」(8月)を通じて祖国の平和を願
    いながら運営委 員として活動を続けていた。このような状況下で郭仁植は東京での活動家の情報提供を韓国政
    府の文化統制局 は郭仁植の心を二つに引き裂く事件であった。分断によって起きた不幸の中で、郭仁植は祖国
    に帰国する機会 も薄れ、東京の韓国大使館でパスポートを破り捨てたと聞く。
    (本人より筆者は聞いたがいつ頃であったか不明。)
    1940年に大邱の三中井画廊にて個展とあるので、再度日本に戻ってからの事件のようだ)その後パスポー トを
    失った郭仁植は1982年頃まで韓国の地を踏む事はなかった。また郭仁植の奥様、小俣智子は以前、北朝鮮 に松
    山バレエ団の一員として招待されたことがあった。金日成の前でバレエを披露したこともあり「私が北朝 鮮に
    一度行ったことが、韓国文化統制局から主人が北のスパイと誤解を受けたのではないか」と私に話してく れた。
    1985年の韓国国立現代美術館(金世中館長)での「元老作家帰国展、郭仁植回顧展」は、郭仁植の長い 苦労の
    歴史からの解放に終止符を打つかのように見えた。李慶成氏の文中で「韓国に帰国することなく日本に 踏み止
    まった」理由に私はこうした一連の事件と実兄の死の経緯があったように思われる。日本に踏み止まっ た郭仁
    植を支えたのは、元松山バレエ団にバレリーナとして所属していた日本人女性の小俣智子であった。

    当時の郭仁植の心中を察すれば心癒す、遠い祖国を忘れさせてくれたものは、献身的な小俣智子の優しさだっ
    たのかもしれない。けれども小俣智子は韓国人作家郭仁植との結婚によって家族から反対され勘当されていた。
    小俣智子は郭仁植の死後、1995年に原因不明の突然死によって亡くなっているが、小俣智子もまた韓日の狭間
    で家族と別れて不幸な時を過ごしていたのだった。

     1958年ルチオ・フォンタナは「新しい絵画世界展」と題された具体の美術展に出品しているが、その後郭仁
    植は1960年から1965年の間に真鍮の板状のものを切り裂いたり、繋ぎあわせたりした作品を数点制作している。
    (図版:Quac-No.1.jpg)フォンタナは金属やカンバスを切り裂いた作品で知られるが、郭仁植の作品にも銅板、
    真鍮や板、紙といった「もの」が頻繁に登場するようになったり、作品に碁石を取り入れたり、吉原治良の作品
    のように円を描く作品も、こうした「具体美術協会」の一連の活動とは無縁ではなかった。「具体」の自由奔放
    な世界が郭仁植の作品に大きく変化を与えたことはいう間でもない。郭仁植の60年代の作品は「西洋美術」と
    「東洋美術」との葛藤、創造と破壊を繰り返す作品として見て取ることができる。さらに郭仁植の作品を決定づ
    けることとなった作品、パネルの上に石膏を塗り、そこにガラスを貼付けて割った作品(図版:Quac-No.2.jpg)
    やパネルの上に黄色い絵の具をアンフォルメル的にマチエールとして塗り、その絵の具の上にガラスを貼って、
    二ケ所をハンマーで割った作品(図版:Quac-No.3.jpg)は1960年代、日本の高度経済成長の中で工業製品が多く
    生産され「街中にガラスのビルが出現した」(郭仁植)時期でもあり、工業化社会への警告をうながす批判的な
    作品として制作された。このガラスを割った作品が後のモノ派で知られる李禹煥のガラスの上に石を置いて割っ
    た作品(1966年)に影響を与えていることは確かなようである。李禹煥が過した時代、1960年代後半の物の大量
    生産による、高度経済成長期に世界が被われるであろう物質文明に対しての「時代批判的な表現学」(李禹煥)
    であった。また「政治的にも経済的にも大きな転換期だったわけで~高橋和己の『我が解体』に象徴されるごと
    く、従来の知の体系は、まさしく、解体を迫られていた。」(『余白の芸術』李禹煥)こうした時代背景の中で、
    ガラスという工業製品と自然石という「外部との連絡を自然石や鉄板で無限定な強い外部性を示唆する」「作る
    ことから離れて、モノ派が取り組んだのはいみじくも物についてではない。概念やプロセスとの対応で変移する
    物の外部性」(李禹煥)に着目した。郭仁植がガラスにヒビを入れることで、李禹煥のガラスの作品にヒントを
    与え「無限定な強い外部性を示唆する」ことになったと私は思える。郭仁植のガラス作品もまた「無限定な強い
    外部性を示唆する」ことがその後の一連のモノ派の人たち(関根伸夫等)の作品に受け継がれていったことは事
    実であろう。

     1962年に制作された他のガラスの作品には平面状にサングラスを貼って割ったもの(工業製品)(図版:Quac-
    No.4.jpg)やウイスキーグラス(工業製品)(図版:Quac-No.5.jpg)を貼付けて割った作品がある。郭仁植のガ
    ラスの作品は「具体」と「モノ派」の美術史との関係を繋げる手がかりとして日本、韓国の美術史に多大な影響
    を与えたと言って過言ではないだろう。その後、郭仁植は何層にも重ねた手漉きの和紙の両面から彩墨や青墨に
    よって、点を一つ一つ重ね打つ作品を制作した。素材への関心は和紙だけに留まらずに、多岐にわたり石・鉄板・
    土・銅板・版画作品へとモノ派の論理とは別の「表層」、「表面の作品」へと展開していった。1969年の「美術
    手帖『ものの言葉を聴く』」という郭仁植の文章には、その後韓国や日本で素材を意識した作品が多く増えて行
    く中で、創作の態度として未来を予見していたように思われる。

    「ものにとりつかれて、もう3~4年になろうか。初め真鍮板、昨年から鉄板というものに可能性を感じ、取り組む
    ようになった。それというのも。人間は、すべてものと言葉に行き着くのではないかと思うからである。(中略)
    宇宙の中には数知れぬものが存在している。この多くのものにものを言わせ、無数の言葉を聞けるようになれば、
    現在われわれが想像もつかぬことになりかねない。ものが発する言葉は、必ず新しい次元を生み出すことになろう。
    この『円』のようなものに、ものを言わせるギリギリの行為である。私は一切の表現行為を止め、ものが発する言
    葉を聞き取ろうとするのである。」(郭仁植)

    郭仁植にとって和紙や真鍮板を用いたこれらの作品群(1965-68年)はもともとこの素材自体が祖国、韓国では
    日常的なもので、身近な素材であったことからも、望郷の思いとしても郭仁植は見ていたのかもしれない。

     最後に郭仁植と李禹煥がもっとも親交のあった当時東京に在住していた、上智大学文学部教授であり、神父で
    あり、美術家であり、評論家であったアメリカ人、ジョセフ・ラブ(1992年、東京で死去)の評論を記載しておく。

     「1960年代日本の前衛美術家の多くが欧米の美術からの模倣や影響下で苛まれていた時期、アメリカからの抽象
    表現主義、イギリスから始まったポップアートとは郭仁植の同行は他の美術家とは異なるものだった。日本の現代
    美術を支えている前提を壊すことだった。彼はガラス板を砕いてキャンヴァスに貼りつけたり、ガラス板の上に別
    の破片を並べたりすることで、文学的なアート形式に立ち入ることなく“抽象芸術”の公式から脱け出 そうとした。
    郭仁植の作品は、シュールレアリズムの“発見されたオブジェ”的な性格はまったく持たなかった。言いかえれば、
    日本の多くのア−ティストをとりこにしたシュールレアリズムの心理学的あるいは説明的コンセプチュアルな資質
    とは,無関係な形式を持っていた。郭仁植の場合、主につなぎあわせる作業---ガラスの破片を接ぐことで、アーティ
    ストとモノも結ばれた---その結果として、形ある作品が生み出された。
     破壊と再構成によるこのプロセスは,コンクリート・石・真鍮板など他の素材においても追求された。これらの
    作品には、1950年代末から1960年代初めにかけて流行した『反芸術』の攻撃的要素はまったく見られず、むしろ新
    しい秩序に何かって動き始めているようだった。」
    (偉大な円--郭仁植の仕事への覚え書き-1982年4月、ソウル・ 現代画廊カタログ「郭仁植作品展」ジュセフ・ラブ)

    上田雄三(ギャラリーQ)
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