開催時間 |
10時00分 - 17時00分
金、土曜日は20時00分まで、入館は閉館30分前まで |
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休み |
月(ただし1月8日、2月12日は開館)、年末年始(12月28日~2018年1月1日)、1月9日(火)、2月13日(火)
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入場料 |
有料 一般1400円(1200円)、大学・専門学校生900円(800円)、高校生400円(300円)、 ※()内は前売り料金 ※中学生以下、障がい者手帳等をご提示の方とその付添者(1名)は無料。 ※本展の観覧料金で入館当日に限り、同時開催の所蔵作品展「MOMATコレクション」もご覧いただけます。 |
展覧会の撮影 |
不可 |
作品の販売有無 |
展示のみ
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この情報のお問合せ |
ハローダイヤル Tel. 03-5777-8600
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イベントURL | |
情報提供者/投稿者 |
住所 |
〒102-8322 東京都
千代田区北の丸公園 3-1 |
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最寄り駅 | 竹橋 |
電話番号 | 050-5541-8600(ハローダイヤル) |
東京国立近代美術館と日本経済新聞社、テレビ東京は、没後40年を記念して、画家、熊谷守一(1880-1977)の回顧展を聞催します。
熊谷守一は、明るい色彩と単純化されたかたちを持つ作風で知られます。晩年は花や虫や鳥など身近なものを描いたたくさんの作品を生み出しました。瓢々とした味わいを持つエッセイでも知られ、『へたも絵のうち』(原著は1971年、現・平凡社ライブラリー刊)は、現在もロングセラーの文庫となって若い層にも読み継がれています。その作品は一見ユーモラスで、何の苦もなく描かれたように思えます。しかし、若い時期から晩年までの制作を詳しくたどると、暗闇や逆光など特殊な条件下でのものの見え方を探ったり、スケッチをもとに同じ図柄を複数の作品に用いる方法をつくり上げたりと、さまざまな探究の跡が見えてきます。穏やかな作品の背後には、科学者にも似た観察眼と考え抜かれた制作手法とが隠されているのです。
この展覧会は、最新の研究成果を踏まえて行う、東京で久々の大規模な回顧展です。《雨滴》(1961年、愛知県美術館 木村定三コレクション)、《猫》(1965年、同)といった代表作をはじめ、200点以上が一堂に会します。
97年の長い人生には、作風の変化はもちろん、家族の死、自身の病などさまざまなことがありました。しかし熊谷はひたすらに生き、そして描きました。その作品世界を存分に感じ取っていただけたら幸いです。
[展覧会の構成]
1章 画業の始まり the 1910s-1920s
1900年、熊谷は東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学し、黒田清輝らの指導を受けました。同級生に夭逝の画家、青木繁がいます。授業で人体のデッサンを学び、1920年代以降の裸婦像の基礎を作りました。また、闇の中でのものの見え方を追究するなど、早くから独自のテーマにも取り組みました。
1910年、岐阜の山中にある故郷に戻り、材木を扱う仕事をした後、再び上京。山仕事の経験は晩年に至るまで熊谷の作品や生活態度に影響を与えました。
2章 さまざまな模索 the 1930s-1940s
この時期熊谷は、絵具を厚く塗り重ねる技法を用い、多くの裸婦像を描いています。また千葉、長野、故郷岐阜、山形など山や海に出かけ、風景画を制作しました。こうした裸婦像や風景画の中から、次第に、くっきりした輪郭線と色の面による戦後の作風がかたち作られました。また、この頃に描かれた膨大なスケッチは、戦後の作品にも繰り返し使用され、熊谷作品の土台を成すものとなりました。油彩以外に書や水墨画を手掛けるようになったのもこのころです。
3章 線と色の完成 the 1940s-1970s
戦中から戦後にかけ、くっきりした輪郭線と色を特徴とする、もっとも広く知られる画風が完成しました。76歳の時からだを壊し、以後自宅からめったに出ず、主に庭の花や虫、鳥など身近なものを描くようになります。しかしこうしたモチーフのいくつかは、すでに1940年代に描かれたスケッチの中に登場しており、長期にわたってねばり強く関心が持続する熊谷の制作の特徴がうかがえます。
※章のタイトルはすべて仮称です。
[熊谷守一] 1880(明治13)年-1977(昭和52)年
岐阜県恵那郡付知(つけち)村に生まれる。 1897(明治30)年上京。1900(明治33)年、東京美術学校西洋画科撰科に入学し、黒田清輝、藤島武二らの指導を受ける。同期に青木繁、和田三造らがいる。 1904(明治37)年に同校を卒業。 1909(明治42)年には《蝋燭》により第3回文展で褒状を受ける。
翌年一時帰郷、1915(大正4)年に再上京するまで、材木運搬などの仕事につく。上京後は二科会を中心に発表を続け、二科技塾の講師も務める。 1922(大正11)年、大江秀子と結婚。 1928(昭和3)年に次男・陽を、1932(昭和7)年に三女・茜を、1947(昭和22)年に長女・萬を失くすなど、戦争をはさんで次々と家族の死に見舞われる。戦後は明るい色彩と単純化されたかたちを特徴とする画風を確立。
97歳で没するまで制作を行った。住まいの跡地は現在二女、熊谷榧(かや)氏を館長とする「豊島区立熊谷守一美術館」となっている。
主催:東京国立近代美術館、日本経済新聞社、テレビ東京