生誕140年 吉田博展 山と水の風景

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会 期
20170708日 -  20170827
開催時間
10時00分 - 18時00分
入館は17:30まで
※会期中展示替えあり。
休み
月曜日休館(ただし7月17日は開館、翌18日も開館)
入場料
有料
一般1,200(1,000)円、大学・高校生800(650)円、65歳以上1,000円
※( )内は前売りおよび20名以上の団体料金 ※2回目以降は有料半券提示で 一般800円、大学・高校生500円 ※中学生以下無料 ※身体障害者手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳をご提示のご本人とその付添いの方1名は無料。 被爆者健康手帳をご提示の方はご本人のみ無料。
作品の販売有無
展示のみ
この情報のお問合せ
東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館
Tel 03-5777-8600(ハローダイヤル)
情報提供者/投稿者
開催場所
東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館
住所
〒160-8338  東京都
新宿区西新宿1-26-1 損保ジャパン日本興亜本社ビル42階
最寄り駅
新宿
電話番号
03-5777-8600(ハローダイヤル)

詳細

参加クリエイター

展覧会内容

 明治から昭和にかけて風景画の第一人者として活躍した吉田博(1876‐1950) の生誕140年を記念する回顧展です。  
 福岡県久留米市に生まれた吉田博は、10代半ばで画才を見込まれ、上京して 小山正太郎の洋画塾不同舎に入門します。仲間から「絵の鬼」と呼ばれるほど鍛錬を積み、1899年アメリカに渡り数々の作品展を開催、水彩画の技術と質の高さが絶賛されます。その後も欧米を中心に渡航を重ね、国内はもとより世界各地の風景に取材した 油彩画や木版画を発表、太平洋画会と官展を舞台に活躍を続けました。
 自然美をうたい多彩な風景を描いた吉田博は、毎年のように日本アルプスの山々に登るな ど、とりわけ高山を愛し題材とする山岳画家としても知られています。制作全体を貫く、自然への真摯な眼差しと確かな技量に支えられた叙情豊かな作品は、国内外の多くの人々を魅了し、 日本近代絵画史に大きな足跡を残しました。
 本展では、水彩、油彩、木版へと媒体を展開させていった初期から晩年までの作品群を一堂に展示、吉田博の全貌とその魅力に迫ります。

第1章 不同舎の時代 1894-1899
 旧久留米藩士上田家の次男として生まれた博は、身近な山野を駆け巡りながら 写生することが好きな少年でした。中学 のとき図画教師吉田嘉三郎に画才を認められ養子になります。京都で洋画修行を始めますが、知り合った三宅克己の水彩 画に感銘し、三宅の勧めで上京、当時優れた洋画家を輩出していた小山正太郎の画塾不同舎に入門します。指導を受けつつ郊外へ出かけては鉛筆や淡彩よる写生に励み、頭角を現していきます。本章では、小学生時代の画帖から始まり、画家としての基礎を学んだ不同舎時代の精巧な鉛筆画、詩的な情調をたたえた水彩風景画などを中心に紹介します。

第2章 外遊の時代 1900-1906
 不同舎で実力をつけた博は、見聞を広めるため塾仲間の中川八郎と欧米渡航を企てます。折しも黒田清輝らが主導する白馬会が洋画界を席巻し始めており、その門下たちが国費で続々と仏留学していることへの対抗心もありました。1899年片道切符とわずかな生活費を持って渡米、デトロイト美術館の館長に自作の水彩画を見せたことで道が拓け、同館で中川との2人展を開催します。博だけでも1000ドルを売上げる(小学校教諭13年分の生活費に相当)という快挙をなし、ボストン、ワシントン等で次々と展覧会を成功させヨーロッパに向います。帰国後には太平洋画会の結成に参画し、1903年には、不同舎で学ぶ義妹ふじをとともに再び渡米、各地で2人展を開催し好評を博しました。この章では、計5年に及ぶ2回の渡航をつうじて評価され、画家人生が一気に開花していった時期の作品を紹介します。

第3章 画壇の頂へ 1907-1920
 1907年、欧米から帰国した博は、義妹ふじをと結婚、新居を構えます。同年、第1回文展(文部省美術展覧会)で水彩画《新月》が三等賞を受賞、以後同展で連続受賞を重ねて一躍脚光を浴び、第4回展では弱冠32歳で審査員に任命されるなど、日本の洋画壇の頂点へと登りつめていきます。大正期に入り、印象派以降の西洋の新しい造形が次々と国内に移入されていく中、流行にながされず写実的な画風を頑なに守りながら、わが道を歩き続けます。また、幼い頃から山野を愛した博は、第1次大戦の状況が渡航を阻んだ事情もあり、国内の山々に情熱を傾けます。毎夏、日本アルプス等の高山に登り、高所で魅せられた雄大な山の光景をテーマに多くの油彩画を描きました。

第4章 木版画という新世界 1921-1929
 浮世絵の復興を目指した版元渡邊庄三郎とのもとで木版画を始めた博は、1921年最初の本格的木版画「牧場の午後」を出版し制作を続けます。しかし1923年の関東大震災で、渡邊版の版木と作品を全て焼失してしまいます。被災した太平洋画会員を救うため、会員の作品を携え、3回目の渡米の途についた博は、アメリカで低俗な幕末の浮世絵が人気であることに不満を抱き、また自分の渡邊版が好評を得たことなどから、改めて独自の木版画制作に取り組むことを決意します。ヨーロッパを巡り1925年に帰国、自ら彫師と摺師を抱えて監修する私家版制作に着手します。洋画のタッチを基調とし、高度な伝統技術を使いながら、平均30数度という摺数の多さで色彩などの効果を得た新感覚の木版画は、国内外で高く評価されました。後半生は木版画制作を続け、その数は250種にも及びます。

第5章 新たな画題を求めて 1930-1937
 この時期には、欧米以外の2度の旅で新しい画題が生まれています。1930年、長男の遠志をともない4回目の海外渡航に出発、インドを広く巡り、東南アジアを経へて帰国します。4ヶ月の旅でしたが、ヒマラヤの山々をはじめ取材した題材も多く、翌年にかけての全32点に及ぶ木版画シリーズの「東南アジア・インドの部」に結実しました。とくにインドの旅は、画題だけなく、輪郭線を抑え淡色を重ね光の効果を出すなど、表現のうえでも新境地をもたらしました。1936年には5回目の渡航として韓国・中国を訪れ、その成果は木版画「朝鮮・満州の部」などに現れています。

第6章 戦中と戦後 1938-1950
 1937年に日中戦争が始まり日本が戦時体制一色へと向かう中、博は1938年から40年まで、3度に渡り従軍画家として中国に赴きます。戦地に取材した作品の多くは失われましたが、貴重な写生帖が残されています。戦争末期には、国内各地の製鉄所や造船所など軍需産業の現場を描いて展覧会に出品しました。1945年に新潟県新津町に疎開、終戦を迎え東京に戻ります。戦災を免れた自宅には、戦前からの博の木版画の人気もあって、進駐軍関係者が出入りしサロンのようであったといいます。1950年、前年の伊豆・長岡への写生旅行で体調を崩し、新宿区下落合の自宅にて73歳の幕を閉じました。

主催・協賛・後援

主催:東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館、毎日新聞社
協賛:損保ジャパン日本興亜、ニューカラー写真印刷
特別協力:福岡市美術館
協力:モンベル

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