開催時間 |
11時00分 - 19時00分
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休み |
最終日17:00
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ギャラリーQ
03-3535-2524 |
イベントURL | |
情報提供者/投稿者 |
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住所 |
〒104-0061 東京都
中央区銀座1-14-12 楠本第17ビル3F |
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最寄り駅 | 銀座 |
電話番号 | 03-3535-2524 |
石田徹也が不慮の事故にあわれて5年が経った。この5年間に石田徹也はテレビ、雑誌、マスコミ等に多く紹介されて、
私たちの心に感動と衝撃を与えた。何故こんなにも石田徹也は美術界だけでなく一般社会の人たちにも影響を与えたの
だろうか。それは石田徹也が描いた自画像が、現代人の心の中に潜む、社会への不満や懐疑心あるいは不信感を抱いた
私たち自信の自画像であることを知ったからなのだろう。
日本の閉塞的な管理社会において他者との関わりの難しさを描くことで、現代社会の文明批判とも社会批判とも思え
るメッセージを私たちに投げかけたからだろう。(上田雄三)
「カフカとテツヤ」あるいは「不在化する自己」上田雄三
『「変身」フランツ・カフカ』は主人公のグレゴール・ザムザがある朝、突然虫になった話から始まる。ザムザはカフカ
自身の化身でもあるが、自己同一性という内なる他者によって、日常と非日常との関係を物語る。ザムザは自分が虫にな
ったことで、周囲の人間から自分がどう見られているかを冷静に、驚くこともなく克明に描写していく。夢を見ていたの
か、現実なのか。ザムザは両親や妹との会話を理解するが、両親たちは虫男の言葉は理解できない。石田徹也もまた絵画
の中で、自己同一性から分裂していく自分の様子を描く。身の回りにある機器、例えば電車、洗面台、ねじ、テレビ、コ
タツ、学校、トイレ、洗濯バサミとあらゆる日常品に「変身」合体している。
カフカも徹也も表現主義的でありながら、対話の困難さを克服したいと孤独と戦いながら「夢」を見ていたのではないだ
ろうか。徹也は現実の社会の中で、コンビニやパン工場、また夜警と多くの職種のアルバイトをしていた経験上、他者と
のコミュニケーションでも多くの苦労を感じていたに違いない。徹也の創作ノートにはアルバイト先である警備員の注意
書きと絵を描こうとする構想のアイデアのコメントが同時に書かれてあることもあったことからも、アルバイト(現実)
と絵を描くこと(夢)の狭間で心が複雑に絡み合い、混乱している精神状態でもあったようだ。徹也の作品にはこうした
アルバイト先で経験した風景の作品も多く見受けられる。ザムザが虫男に変身した後も外に出ることはなく、自己の殻の
中で過ごしたように、徹也は部屋の中で、現実から逃れてもう一人の自分、テツヤに向かい、テツヤ自身との対話から絵
を描いていたのではないだろうか。こうした困難な日常からも、自分で自分を見る、見られることと同一化されているこ
とから起きる「不在化する自己」が、徹也をテツヤに変身させていた理由なのかもしれない。
かつて世間を騒がせた神戸A少年(1997)は、犯行声明文の中に「今までも、そしてこれからも透明な存在であり続け
るボクを、せめてあなた達の空想の中だけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。」という言葉を残している。
徹也と神戸A少年は無論、年齢も地域も育った経験も環境も全く違う、けれども徹也の生きた時代、少年による殺傷犯罪
事件が全国各地で多発的に起きた時代に、同世代ではなくても、少年の心の問題として敏感に感じ、彼自身も傷ついてい
たようだった。カフカとテツヤそしてA少年、この三者に共通する変身願望あるいは境界性人格障害(ボーダーライン)
が対人関係・自己イメージ・感情の不安定、著しい衝動性を特徴とし、1:現実・空想の中で見捨てられることを避けよ
うとする努力 2:理想化・こき下ろしの両極端を揺れ動く、不安定な対人関係 3:解離性同一性障害(多重人格)
:持続的で不安定な自己イメージと重なる。
「訪問者」(45,5x53cm 1995以降)と題する作品がある。この作品では麻原彰晃(元オウム真理教祖)の顔がテツ
ヤの顔になってオーム貝と合体して、アパートのドアから訪れる(地下鉄サリン事件 1995)という社会性の強い作品
描いている。徹夜の創作ノートには『日本人の心理的な特徴として「わかり合える日本人」というのがないだろうか。
を日本人であれば全てのことは、大声で言わなくてもわかると思っている、上祐がしょうげき的であったのは「わかり合
えない日本人」というものをみな知ってしまったからだ、言語の構造、発想も全く理解できない日本人:あ・うんの呼吸
が伝わらない日本人』と書き記す。他のページでは現行犯逮捕の刑事訴訟法を調べ、克明にノートに書き記していたこと
からも徹也は現代の少年犯罪やオカルト宗教に対しても現代人の心の病として、「疎外された孤独」や「失われた自己」
という現代社会の問題に対して徹也は日々憂いでいたようだ。かつて徹也は小学6年生の頃に<弱いものいじめは、やめ
よう>というポスターを描いているが、幼い頃からいじめや、社会の問題に対して正義感を持って立ち望んでいたよう
だ。徹也はそんな弱者である少年や少女の気持ちとなって、自らをカンバスの上に描く、テツヤは虚ろな眼で遠くを見
つめ、公園やアパートの室内といった孤独な場所で、「空想の中だけ」で一人たたずみ過ごしていたのかもしれない。
2006年6月、銀座の三カ所の画廊(ガーディアン・ガーデン、ギャラリー・イセヨシ、ギャラリーQ)にて『石田徹也
追悼展「漂う人」』を開催した。少しでも多くの人たちに石田徹也の存在を知ってもらうために、一冊の画集をNHKエ
デュケーショナルの元エクゼクティブ・プロデューサーである西松典宏氏に差し上げたことがきっかけで、「新日曜美
術館-アート・シーン」(2006.6.11)にて追悼展が紹介された。その放映後、瞬く間に石田徹也は多くの人に知られ、
さらに同番組の「悲しみのキャンバス 石田徹也の世界」(2006.9.17)(再放送2006.12.24)にて異例の45分番組の
ドキュメンタリーが放映された。そしてさらに多くの人たちが石田徹也に興味を持ち共感を得た。
けれども何故これほどまでに石田徹也の作品が多くの人たちの心に訴えたのだろうか。石田徹也の絵を初めて見た衝
撃は、少年殺傷事件のニュースを見た衝撃や、いじめで自殺をした少年少女の不幸を知った時の衝撃に似ている。現代
人の多くの人たちが、日々経験している人間の悲しみ、人間の哀れみと同じ感情だった。徹也がその不幸のすべてをテ
ツヤに置き換えて一人で、身動きができないでいるテツヤに多くの観客は共感し、同情したのではないだろうか。テツ
ヤを知ることで、人々は自分も悲しみを持った一人の孤独な人間であることを知ったに違いない。年老いたものは、社
会から疎外されている自分を知り、少年少女は、自らがテツヤとなって自分が儚く、崩れやすいことを知る。徹也はカ
ンバスに描かれた少年、テツヤが誰もが知っている、あなたであり、私であることを気付かさせてくれたのだ。その虚
無感は現代人の多くが感じる心の病であり、誰もがテツヤと同じように他者とのコミュニケーションを望みながらも、
コミュニケーションができない私たちなのだ。特に日本の現代社会では会社や学校という組織の中で管理されて、閉塞
された個人主義が徹底し、蔓延しているのではないだろうか。宗教心の薄れた現代社会では心の絆を求めることもでき
ず、親子の絆も人々の信頼関係も希薄な状態であることからも人々が「不在化する自己」あるいは「透明な存在」であ
ることを知ったのではないだろう。それは現代日本社会が引き起こした集団的な病なのだ。誰もが石田徹也の絵を見た
時に、驚きと同時に共感し、不安を憶えるのは現代社会の中で人々が日々、不幸の中で暮らしているという、壊れた社
会の中で私たちが生きていることの証明、実感(現実)なのだろう。
石田徹也は「ひとつぼ展」(1996)のカタログの受賞コメントに「メッセージを肉声にする自画像をつかって、現実の
何かに光りを当てる絵を描きたい。」と書き記している。その「光り」は救いであり、人々の心の中で淡く光る「祈り」
なのかもしれない。その「光り」が多くの人たちに今、届こうとしている。
[Gallery Q HP より転載]
本展に合わせて求龍堂より全作品集が出版されます。
仕 様:上製本、カバー、帯かけ
頁 数:248頁
判 型:A4変型 297×225ミリ
点 数:カラー210点(予定)
寄稿者:横山勝彦(長野県信濃美術館副館長)
堀切正人(静岡県立美術館)
花輪莞爾(作家)
上田雄三(ギャラリーQ)
8,925円(税込み)
出版:求龍堂