増山たづ子 すべて写真になる日まで

大西暢夫《徳山小学校校門跡の増山たづ子》1996年
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会 期
20131006日 -  20140302
開催時間
10時00分 - 17時00分
10時00分-16時30分(11月、12月、1月)
休み
水(12月25日は開館)、年末年始(12月26日~1月8日)
入場料
有料
大人800円(700円)、高・大学生400円(300円)、中学生以下無料 ※()内20名以上の団体料金
作品の販売有無
展示のみ
この情報のお問合せ
IZU PHOTO MUSEUM
情報提供者/投稿者
開催場所
IZU PHOTO MUSEUM
住所
〒411-0931 静岡県
長泉町東野クレマチスの丘347-1
最寄り駅
三島
電話番号
055-989-8780

詳細

参加クリエイター

展覧会内容

 IZU PHOTO MUSEUMでは「カメラばあちゃん」として知られる増山たづ子の展覧会を開催いたします。
 岐阜県徳山村で生まれ育った増山は戦争で夫を亡くした後、村で農業のかたわら民宿を営みながら暮らしていました。 1957年、この静かな山村にダム計画が立ち上がり「皆が笑って過ごす天国のガイ(様)」と増山がいう徳山村も推進派と慎重派に二分されます。増山がそれまで使ったこともなかったカメラを手に取ったのは、徳山ダム計画が現実味を帯びてきた1977年、ちょうど60歳の時でした。「国が一度やろうと思ったことは、戦争もダムも必ずやる」と縄文時代から続くという村のミナシマイ(最後)を前に、せめて残せるものを残そうと愛機・ピッカリコニカで故郷の村をすみずみまで撮影して歩きました。
 そんな増山はたびたびマスコミにも取り上げられ「カメラばあちゃん」の愛称で知られるようになりました。村民運動会で初めて写真を撮影して以降、年金のほとんどを写真につぎ込みながら1987年の廃村後も通い、2006年に88歳で亡くなるまで消えゆく故郷を撮り続けました。あとには約10万カットのネガと600冊のアルバムが残されました。
 2008年、計画から半世紀を経て徳山ダムは完成し、かつて村のあった場所は水の底へ沈みましたが、残された写真は在りし日の徳山村の姿を今に伝えてくれます。
 本展では増山のアルバムや彼女白身の手で録音された村の音、村の植物でつくられた押し花を中心に展示いたします。

【増山たづ子関連年譜】
1917年 岐阜県徳山村(現・揖斐川町)戸入生まれ。
1936年 同じ村の増山徳治郎と結婚。のちに一女一男をもうける。
1945年 夫・徳治郎、ビルマのインバール作戦に勤員され、行方不明となる。
1957年 徳山ダム計画部立ち上がる。
1973年 徳山ダムを盛り込んだ木曽川水系水資源開発基本計画決定。
      この頃村の会合などの録音を始める・。
1977年 徳山ダム計画が本格化し、ピッカリコニカで写真を撮り始める。
1983年 徳山村を舞台にした映画「ふるさと」(監督:神山征二郎)に出演。
      最初の写真集『故郷』を出版。
1984年 エイボン功績賞を受賞。
1985年 離村。岐阜市内に転居。
1987年 4月、徳山村廃村、藤橋村に編入。
2000年 徳山ダム本体工事着工。
2003年 岐阜地裁が事業認定取り消し訴訟を棄却。
2006年 3月、88歳で死去。
      9月、徳山ダムの試験湛水が始まり、旧徳山村集落跡地が水没。
2008年 5月、徳山ダム完成。

【著書】
『故郷』(じゃこめてい出版、1983年)
『ふるさとの転居通知』(情報センター出阪局、1985年)
『ありがとう徳山村』(影書房、1987年)
『まっ黒けの話』話者:増由たづ子、編者:鈴木暹(影書房、1993年)
『増山たづ子徳山村写真全記録』(影書房、1997年)ほか。

【CD】
『ダムに沈む昔話の世界 たぁばぁちゃんの昔がたり』第1集・第2集、企画構成:野部博子(インテグラ・ジャパン、2000年・2002年)

【カメラばあちゃんの言葉】
◎「大雪が降れば、家々につながる細い雪道をつけて、三人ヨレ(集まれ)ばお酒を飲み唄を唄い踊り出し、また昔の思い出話をしたりして楽しく過し、お天気になるとそれぞれに屋根雪おろしをして、年寄りの家は村人達が集まって屋根雪おろしもやってくれて、皆が仲良くいつも笑って過した。アンラントー(私たち)には天国のガイ(様)なところでした」

◎「イラ(私)もいくら日本一のダムになっても、アガデ(自分)の大事な故郷がダムになっては、かなわん、と思い、真剣にはじめは反対しました。だけど国の力にはかないません。国が一度やろうと思ったことは、戦争もダムも必ずやるから、大河に蟻がさからうガイ(様)なものです」

◎「ビルマインパール作戦で行方不明になった夫が帰って来たら、写真だけ残った、大事な故郷を見てどう思うだろうな-」

◎「私たちはダムのために大事な大事なふるさとを出てきた。ダムが少しでも長く皆さまのお役に立って、少しても喜んでくれる人がいないと、私たちは何のために村を出たのかわからなくなる。私たちが出てきたことでどうぞ皆が幸せになってくれますよう祈らずにはおれない」

◎「幾百年、栄えた我が村も、時の流れにはさからえず、昔の光、いまいずこ」

◎「残り火を、巣めて燃やす、余生かな」

[徳山村]
岐阜県揖斐郡徳山村は美濃の西北端・揖斐川水系最上流部に位置していました。8つの集落、約500戸、1500人からなり、周囲を1200m級の山々に囲まれた多雨・豪雪地帯。 1987年に旧藤橋村(現揖斐川町)に編入され、地図からその名前が消えました。

[徳山ダム]
岩石や土砂を積み上げて造る日本最大級のロックフィル式多目的ダム。計画だけでいつまてたっても建設される気配のない「幻のダム」とも呼ばれました。長期の補償交渉を経て2000年に本体工事に着工。 2008年に完成し、旧徳山村の門入(かどにゅう)集落を除く全ての集落部がダム湖(徳山湖)に水没しました。

[浮いてまう]
徳山村では村が「沈む」ことを「浮いてまう」と表現します。「水没」とは村の外から見た言葉であって、故郷を追い出される人々にとっては自分たちの生活が根を失って浮き上がってしまうことを意味しています。

[カメラばあちゃん]
増山は写真を撮り始める前、村の生活音を録音していました。カメラに興味を持ち始めたのは、ダム計画が現実味を帯びてきた頃。当初はフィルムの入れ方すら知りませんでした。愛機・ピッカリコニカと首に巻いた水色のタオルはトレードマークとなりました。増山はこのカメラを何度も修理したり買い替えたりしながら使い続けました。

[友だちの木]
増山の往む戸入(とにゆう)集落の川縁に生えていた楢の老木。川に洗濯をする増山のよき話し相手でした。いつも「ワシを見よ、大水で根を洗われ、台風が来て枝を折られてもこうして立っているぞ」と慰めてくれたといいます。増山はこの木が生きながら水に沈むのかと心配しましたが、岐阜市に移転する頃に枯れてしまいました。

[ピッカリコニカ]
1975年にコニカから発売されたピッカリコニカはコンパクトカメラの先駆け機種。軽くてストロボも内蔵していたこのカメラは大ヒット商品となり、カメラの大衆化に貢献しました。民宿を訪れた客に「素人の自分でも写せるカメラはないか」と相談したところ「猫がけっころがしても写る」とこのカメラを薦められたといいます。増山はピッカリコニカの開発者・内田康男氏と長く親交を結びました。

関連イベント

○講演会
篠田通弘(徳山村の歴史を語る会、元徳山村教員)
「“浮いてまった徳山村”とは何だったのか -廃村から30年を前にして- 」
12月15日(日)午後2:30~4:00
定員50名、無料、申込先着順(お電話にてお申し込みください。 055-989-8780)
会場:クレマチスアカデミーフォーラム(IZU PHOTO MUSEUM隣接特別会場)

○上映会
「ふるさと」(1983年、106分)監督:神山征二郎 制作:こぶしプロダクション
12月8日(日)午前11:15~午後1:00/午後2:15~4:00の2回上映
定員150名、無料、先着順(申込不要、当日有効の観覧券が必要です。)
会場:クレマチスの丘ホール(IZU PHOTO MUSEUM隣接特別会場)

「浮いてまう -岐阜県徳山村への愛惜-」(1977年、48分)制作:東海テレビ
※展覧会会場にて連日上映予定

○トークイベント
出演予定:神山征二郎(映画監督)、山口崇(俳優)、平方浩介(童文学作家、元徳山村教員)、山内公明(元東海テレビディレクター)、
大西暢夫(写真家)、斎藤秀夫(元NHKカメラマン)、野部博子(増山たづ子の遺志を継ぐ館)、小原真史(当館研究員)
詳細は当館ホームページもしくはクレマチスの丘総合インフォメーション(055-989-8787)までお問い合わせ下さい。

主催・協賛・後援

主催:IZU PHOTO MUSEUM
協力:増山たづ子の遺志を継ぐ館

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