「楽園」 / 佐藤岐夜美 個展

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会 期
20130602日 -  20130625
開催時間
12時00分 - 19時00分
休み
水曜
入場料
無料
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ART TRACE GALLERY
http://www.gallery.arttrace.org
情報提供者/投稿者
開催場所
ART TRACE GALLERY
住所
〒130-0021 東京都
墨田区緑2-13-19 秋山ビル1階
最寄り駅
両国
電話番号
050-8004-6019

詳細

参加クリエイター

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佐藤岐夜美個展 / 「楽園」 -世界と「わたし」の待ち合わせ (八木あすか・評)

 化粧、ファッション、持ちもののカスタマイズ。進化発達し続ける、表層を彩り装うアイデアと技術。本棚や冷蔵庫を見られるのは(あたまとおなかのなかみ、うずまく自意識さかまく歴史が顕わになるようで)恥ずかしいという人は多いけれど、自分なりにつくりあげた外貌ほど内面を映し晒すものもありません。「わたしきれい/かわいい(でしょ)?」 ひところ都市部で流行った怪談の決め台詞を、返事を期待しない問いを、無差別に放ちながら外を歩いています。

  一見「きれい」で「かわいい」佐藤岐夜美の作品たち。うつくしく繊細なモチーフとやさしげな描線に誘われて手を伸ばすと、その特異な質感と多層構造によって安易な接触をやんわりと拒まれ、観賞者はしぜん、自分の五感の経験を集め、新しい感覚器をあつらえるようにして作品に対峙することになります。 
  
 作品に通底するのは不思議な懐かしさ。もっとも大きな鉤は、たいへんな枚数散りばめられているシール。幼児期にきっと誰しも一度は夢中になった、貼る・剥がす・飾る・集める、感覚の根もとに貼りついて剥がれない快楽の原体験。(産まれて数ヶ月の子どもが、シール遊びに興じるうちに自らの頬に一枚を貼り、周囲の反応と鏡の中の自分を見比べて蕾がほころぶように微笑んだのを思い出しました。彼(女)が自分の外側つまり世界を得た、不可逆の瞬間。)世界のなかで個を出すために重ねるデコレーションは、より強い実感をもとめて三次元方向へむやみな成長をする傾向にありますが、佐藤の作品は、貼っても貼っても充たされない「わたし」の空虚を、代理戦争のように肩代わりして浮き彫りにしています。足りないのはキャンバスかシールか、それとも・・・・・・そしてあれほど重ねてきたはずなのに見る角度を変えるとこんなにも薄くて浅い。ここに立っているのに存在の実感すらおぼつかない。衝撃を受けつつもどこか安堵する「わたし」。「このまま続けてもいいの?」 

  2007年頃から発表されてきた、金属板に描写と塗装を重ねた表現。最近の作品では支持体を鉄板からアルミ板へ変えたことでさらにエッジが立って諧謔味が増し、挑発的な佇まいに。鉛筆のデリケートな線は、日本画制作のように支持体を寝かせて描く方法を採り、画面に身体を沿わせるようにして引いているのだそうです。作家の息づかいはもとより、生活の起伏や明暗もより直截に写し取られるような、心身を削る作業。作品内に重なる薄膜状の層、その狭間を静かに満たす細胞液のような緊迫感はここに起因するのかもしれません。また、「かわいい」アイコン的要素がやや減り、佐藤が中学生時分から無意識のうちに強く惹かれていたという「蝶」と、「薔薇」に絞り込まれてきています。「蝶」は、古今東西で、夢と現、此岸と彼岸をゆききする存在の象徴。羽化することから変身や再生のイメージも託されてきました。「薔薇」は、外観も象徴するところもアジアにおける「蓮」に相当し、太陽の光の姿にもなぞらえられる、復活と不死のシンボル。ふたつのモチーフに共通しているのは、儚さとそれ故の永続性への憧れ、否定と諦念の裏にある希求で、今展覧会のテーマである「楽園」にも通じるように思います。
  
  「想像妊娠」(2012年)は、微笑とも苦悶ともとれる表情、躍動感のある上半身と硬直した下半身の重さの対比が印象的な作品。指に絡みつく永遠の約束のような束縛には、今にも解けたり飛び去ったりしそうな脆さも薫ります。過去から「わたし」を貫通して未来へ、「わたし」と世界を繋ぎ続ける、呪いのような祝福のような普遍。わたしたちを縛ると同時に護っているかのよう。
  「純潔教育」(2012年)では、よってたかって「彼女」を教育しようとする世界のおぞましい一面が暗示されています。けれど、清潔な函に大切に匿っておいても、そのうち自ら蝶も花も産んでしまいそうです。すべての種は存在の初から身の裡に宿っているのだとしたら。
  
  ひとの歴史のなかで「楽園」は、その存在を約束されては反故にされ、忘れ去られては祭り上げられ、棄てられては再発見されながら、時代から時代へと受け継がれてきました。今では誰にも気がつかれないかたちで霧散してしまっているのかもしれない、使いふるされたそのイメージ。自己装飾行為はエスカレートするほどに「わたし」の輪郭を曖昧にするけれど、境目を淡くして世界に融けてしまうのも「楽園」へのひとつの道かもしれません。「楽園」には「わたし」にいてほしいから、それぞれを求める旅路は似かよっていて、途中でどちらを探していたのか判らなくなるほど。

  世界に所属した日から、見る/見られる存在となり、そのあわいに「わたし」の実存感は集中しています。皮のきわに生命(栄養)が凝縮されるのは、「楽園」産のみならず種持つ実ならみな同じ。佐藤の作品は、その境界の景色を見せて、味わわせてくれます。“いたみたい”人向けに判りやすく傷口をひらいてみせるのでも毒の罠を仕込むのでもなく、背徳すれすれに挑みながらも、「わたし」を汚さず傷めず、きれいな後味で送り出してくれる、その節度と品。そして、情報や装飾を足したがる世界の涯でたったひとり踏みとどまって引き算をひきうけている、その強い挟持と気高さが、佐藤の作品の希有なありようを決定づけています。

  すべては実際に作品の前に立って体感してこそなので、ぜひ来場して、「わたし」がひもとかれる、おそろしくてここちよいような無二の感覚を体験してほしいと思います。
境目にピントが合った刹那、いつか伸ばした手が、背後から「あなた」の肩を叩くかも。誰にともなく呼びかけていた問いへの応えが、すぐ首の後ろあたりにまで返ってきているかも、しれません。

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