大槻香奈 展 「みんなからのなか」

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会 期
20121017日 -  20121104
開催時間
11時00分 - 19時00分
最終日の展示は18:00までとなります。
休み
月曜定休
クリエイター在廊

10/17
この情報のお問合せ
ニュートロン東京
TEL 03-3402-3021
情報提供者/投稿者
開催場所
neutron tokyo
住所
〒107-0062 東京都
港区南青山2丁目17-14
最寄り駅
外苑前
電話番号
03-3402-3021

詳細

参加クリエイター

展覧会内容

neutron tokyo全館開催
イラストレーター / 画家として絶大なる支持を得ている大槻香奈は、混沌とした時代を逞しく生きる生命としての「少女」を描き続け、秘めたる女性性や母性を少女のモチーフにこめる。
SNSを通じてメッセージや作品は幅広い世代に共感を呼び、各地のアートフェアや催事でも人気を招く。
今年もneutron tokyo全館を用いての新作個展で幅広い表現の可能性を発揮する。

[主催者コメント]
「みんなからのなか」 に寄せて

 大槻香奈は作家としての確かな力量に加えて、どうやら時代の予言者としての才覚も持ち合わせているようである。 作家として大槻が描く画面には必ずしも全て言語化出来るほど自分の理解が追いついていない事象も含まれており、しかしながら無意識のうちに描いた予感的事象は、数年後にピタリと填まる時期が訪れる事があると言う。 大槻に限らず人間も生物としてそうした感覚を持ち合わせていても不思議はないのだが、世の中をしっかりと観察し、その上に自身の思考を重ねて「一歩先」あるいは「半歩先」を描くことが作家の資質の一つだとすれば、それは人よりも抜きん出ていても当然である。代表例に「3.11」以前に描かれた「ときとし」という作品がある。 画面中央に浮かび上がる少女が、背景の山々や手前の街のビル群に囲まれてマッチをする瞬間。 既にその世界は崩れ去ることを前提に存在しているかのように、不穏でまとまりが無い。 小さく描かれた少女達は暢気にプールの水面を眺めているが、大きな少女は笑顔を浮かべてこの世界を「リセット」させるつもりだろうか、マッチを擦る。

 この個展のタイトルは「乳白の街」と題されたが、その根底には「乳海攪拌(にゅうかいかくはん)」というテーマがある。 当時聞き慣れない言葉であったが、乳海攪拌はヒンドゥー教における天地創造神話の中に登場するとてもスケールの大きな話である。 神々が失いかけた力を取り戻すべく、不老不死の薬として「アムリタ」という霊薬を生み出す為に地表の海を回転させ、その緩やかで大きな動きのなかで生命が死に、新しく生まれ、やがて新しい生態系を孕む乳色の海になっていく。 神話に限らず私達の住む地球では、時に人智の及ばない規模での天変地異に翻弄され、途方に暮れてきた。 しかしそういう歴史の中でも人々は再び(何度でも)立ち上がり、乳白の海から新たな希望の芽を見出し、生きるためのエネルギーに変換する。そう考えると乳海攪拌によって生まれるアムリタは、神々のためのみならず、地上の生命にとっても不屈のエネルギーを沸き立たせる契機になっているのかも知れない。

 そして今回、大槻がテーマとするのは「蛹」である。 言わずと知れた青虫が蝶に変身する途中経過としての状態であるが、実は青虫が蛹になった時、その殻の中では青虫の組織がドロドロと溶け、全く新しい組織変換を自発的に行ない、その状態で時間をかけて(熟成するかのように)時を待ち、やがて最終形態としての蝶の姿をもって、殻を破る。 神話の中の乳海攪拌は1000年間も続いたという。 一方、それに比べれば短いが一生の中では充分に長い蛹の期間を経て青虫は蝶になり、その後一週間程度で死んでしまうと言う。 同じドロドロでも蛹は生命が自発的・本能的に行なう変態である。 そしてその状態を脱する時は、既に死を覚悟した上での旅立ちであり、その短い輝きの期間に蝶としての美しさ、儚さを存分に発揮する。では彼らは何を覚悟して、その蛹の殻の中で旅立ちの支度を整えるのだろうか?

 今の日本を思えば、私達が皆確固たる将来像をえがけず、右にも左にも足を踏み出せず、停滞している。安易なイエス・ノーで片付けるべき時代は過ぎ、経済効率優先の考え方を卒業し、私達はどこに向かおうとするのか。 その答えを探すモラトリアムとしての時期を、無意識的に選択し始めていると考えられよう。 それをネガティブに捉えず、むしろ今こそ私達自身の選択により蛹の中に包まれて時機を待ち、世界の本当の理想的な在り方を想うことが必要ではないだろうか。 従来の凝り固まった組織形態や思考回路を緩やかに溶かし、やがて最終形態に変異し空を羽ばたくために、前向きに「からのなか」に身を預ける。 その先にはやがて私達が本当に自分たちの力で飛び立つための、覚悟と勇気が必要とされるだろう。

 大槻香奈は普遍的なモチーフとする少女達に宿る本能と理性、自覚と無意識のバランスを俯瞰的に眺め、その存在を必然的な出来事=自然現象として描くことにより、大きな母なる視座から今の世の中を見渡している。 無邪気なうちにも本能的な直感と母性を持ち、強い生命力(生存本能)を秘める少女達が夢見る世界とはどんなものだろう。 いつか蛹から羽化する時に、その世界はやってくるだろうか。
                                    gallery neutron 代表 石橋圭吾
 

[展示ステートメント]
「みんなからのなか - 今を蛹として生きる事-」

 3.11 の震災以降、私は「変わろうとする意思が無ければ何も変わらない」という、当たり前のような事に気が付いた。震災から1年が過ぎ、私は「今日本が変わらなければ未来が無い」という危機感と、時代に対する漠然とした不安と恐怖感を抱きながら生きている。昨年の個展「乳白の街」では、それでも「希望」を見出して生きていくことを表現したつもりだが、今回は「希望」を描くだけではどうにもならない、その先に待つ「覚悟」を描かなければと考えた。
 日本が「生まれ変わる」とは一体どういう感覚なのだろう。それについて考えてみて、私はその感覚すらイメージ出来ないことに気がついた。そしてそれが、先ほど書いたような不安や恐怖感の根源なのだろうと思った。

 私はまず、今回の個展で「自らの意志を持って生まれ変わる」イメージを描けないかと考えた。私は普段、主に少女モチーフを扱い制作をしているが、その少女は「思春期」という、子供から大人へ「生まれ変わる」過程を生きている存在だ。そう考えてみてふと思い出す事があった。それは小学生の時に飼って育てていたモンシロチョウの幼虫(青虫)の存在だ。それを連想したのは、小説の中で思春期の「人間の性質が変化する過程」を「蛹」に例えて表現されているのを見かけたせいだろう。青虫は「蛹」という過程を通して蝶へと変態する。私は「青虫」と「蝶」という生存戦略の全く異なる性質を生きるこの生命体が、日本が「生まれ変わる」というイメージのヒントを与えてくれるような気がした。
 そう思って、蝶に関連する事を本などで調べるようになった。生物の世界は色々と解明されていない事も多いので、想像で補うために主観が多くなりそうだが、蝶の生態について以下に少し書いてみたいと思う。

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 地を這う「青虫」と空を飛ぶ「蝶」、その全く異なる性質の間には「蛹」という期間が存在する。蛹という期間をどう捉えるかによって蝶の物語は大きく変わりそうだが、私の信じる見解はこうだ。蛹というのはいわば蝶を生むための卵で、本来ならば蝶が蛹の状態で産むことが望ましいのだが、蝶にはその体力がない。そのため、一度小さな卵で産んでから青虫として孵ってもらい、青虫自身に栄養を摂らせて自らまた卵の状態になってもらう事をする。
 蛹の中では何が起こっているかというと、白血球が青虫だった時の組織を食べて壊しているので身体がドロドロに溶解している。それ以外のこと、その段階から蝶の姿になるまでのメカニズムは未だ解明されていない。蛹について本当に知るのは今のところ、蛹になったそれ自身だけということだ。
 蛹という何ともカオスな時期を過ごした後、蝶としてはどう生きるのか。蝶はその美しい姿と飛び立つ事が可能な性質から「自由」や「希望」のイメージと結び付けられる事が多いが、実際のところは過酷に生きているらしい。オスは基本的にメスを探し求め、メスは卵を産める環境を探し求める為に生きている。また、自由にいろんなところを羽ばたいているわけではなく、蝶道という決まった道筋を飛んでいる。そして時々台風などの強い風に飛ばされて、適応し難い環境にて生息しなければならない時もある。

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 私が知る事が出来たのは簡単に書くとこんな感じであった。そして「青虫は自ら卵の状態になることで世界のはじまりを二度も経験する」ということ。私はこの事実だけでとても心動かされてしまった。何より「生まれ変わる」という事のイメージが私にもわかるような気がしたのだった。と同時に、世界をもう一度いちから始めるということは、自分の身に置き換えてみればなんて大変な事なのだろうと思った。
 こうして蝶の世界に寄り添って感情移入してみると、自分の住む世界の見方がすこし変わってきた。日本が「生まれ変わる」為に私達はどうすればよいのか。蝶の世界で例えるなら、それは「蛹になる事を選択する」ところから始まるような気がした。大人になろうとする意思が無ければ人は本質的に大人になる事はできないのと同じように、まず蛹になろうとする意思が無ければ青虫は蝶にはなれないという事を思ったからだ。そしてそんな風に考えてみて、私は今回の個展で【今を蛹として生きる事】について表現したいと思った。

 素朴な疑問だが、なぜ青虫は「蛹になる事を選択する」のだろう。進化の過程で、青虫が青虫のまま子孫を残していく事ももしかしたら可能だったかもしれない。そのほうが面倒でないし、とにかく楽だろう。わざわざ蛹になって、その中で身をドロドロに溶かして蝶に完全変態をする必要なんてあるのだろうか。それとも青虫にとって空に飛び立つ蝶の存在は、いつか自分がそうなれる可能性を知っていて、あらかじめ魅力的にイメージされているのだろうか…
 青虫が蝶になることを希望として捉えているのかどうかは分からないし、人間のように未来のリスクを想像するなんて事があるのかどうかも分からないが、どちらにせよ蝶の身体を手に入れた先に待つものは、生きる為に闘い続ける「覚悟」だろう。蝶になれば、今までとは全く異なる戦闘態勢でいなければ生きていけない現実が待っている。しかしそれを知ってか知らずか青虫は蝶になる為に蛹になる。それはなぜかといえば、きっと彼らには「生き続けたい」という欲求があるからなのだろう。

 この「生き続けたい」という欲求は我々の根底にも存在しているものだと思う。例えば最近で言えば、ニュースで反原発デモの様子を俯瞰構図で見た時にも感じたことだ。反原発やデモがどうかという事より何より、賢く正しく生きたいという欲求の前にその根本的な欲求によって人は支えられ、動かされているのだと。当たり前のような事だが、それを改めて感じられた事は自分の中では重要だった。そしてあたらしい日本をはじめるという事は、どんな形であれ「生き続けたい欲求」を思い出すことで叶えられるような気がしたのだった。

 近頃よく耳にする、日本はこれからどうなっていくべきかという事について、日本の未来について…、とても漠然としていて私にはうまく答えられない。それはきっと、私達が蛹になる事を選択しなければ分かるものではないからなのだろう。それは前にも書いたように、蝶(あたらしい日本)になる方法について本当に知る事が出来るのは、蛹になったそれ自身だけだからである。
 よって、あらかじめネタバレするようで恐縮だが、今回の個展で蝶のイメージを表現することは出来なかった。蛹の姿になろうとせずに蝶の姿を描く事は、非現実すぎて意味を持たないと思ったからだ。しかし今の私達が青虫であるならば、蛹を表現するという事は「すこし先の未来」を表現する事でもある。私は僅かながらの自分の夢を、そこに込めることが出来たかもしれない。

 蛹になる為には私達は何をすればよいのだろう。現時点で私が素直に言えることは、今の自分の役割を確実に果たしていくことだ。おそらく長いあいだ、それに徹するしかないのだろう。

 徐々に未来を奪われていくような今(戦後・震災後)の日本社会の中で、おそらく永遠に持ち続けるであろう繊細な痛みを抱えて、みんな殻の中で生きること。蝶の蛹のように未来への希望と不安が詰まったその卵は、衝撃を与えるとすぐに死んでしまう脆い存在だ。私達が蛹になることを選択した時には、皆その繊細さを抱える事になるだろう。けれどもそれは、美しい夢を見るためと、何より未来を生きる土台づくりの為なのだ。そう考えると、今を蛹として生きるのも、きっと悪くないと思えてはこないだろうか。

 最後に、個展タイトルの「みんなからのなか」のひらがな表記の意味について書いておこうと思う。
 まず「なか」という言葉が「中」という言葉の他に「毋」という文字に変換する事が可能なためだ。毋は「なかれ」(訓)と読むが、中国語では禁止を表わす副詞として「~すべからず、~するなかれ」といった意味であるのと同時に、「むしろ~するほうがよい、~するほうがましだ」といった意味にも使われている。そしてまた「毋」は「母」の変形として使われることもある。
 「からのなか」で生きることに対する人々の相反する思いと葛藤と、そして「みんなから」作り出せる「母」(私たちを守り、生かすことのできる存在)とは一体何なのかを問いかける言葉として、このタイトルに落ち着いた。

 殻の中で、私達の今と未来への想像を膨らませながら鑑賞して頂けたのなら、幸いに思います

                                     2012.08.31 大槻 香奈

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