開催時間 |
11時00分 - 18時00分
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休み |
日曜日,月曜日,祝日
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展覧会の撮影 |
可 |
この情報のお問合せ |
info@lokogallery.com
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イベントURL | |
情報提供者/投稿者 |
住所 |
〒150-0032 東京都
渋谷区鶯谷町12-6 |
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最寄り駅 | 代官山 |
電話番号 | 03-6455-1376 |
LOKO GALLERY では、画家・佐々木成美による個展「As the Body」を開催致します。当ギャラリーにおいて、2021年以来3回目の個展となる本展は、身体とイメージの運動性に焦点を当て展開されます。
佐々木がこれまで参照してきた神話や伝承、幻想小説、象徴主義や神秘主義が内包する力は、彼女が自身の絵画において採用する抽象と分かち難く結びついています。それは、指し示すことと、現れることの「二重の示し」でもあります。人間の苦悩や矛盾、精神性や夢想など目に見えないものを描き出そうとした象徴主義について「(発展を志向する)モダンに至る一歩手前」の時間軸としてその時代を読み取る佐々木は、そこに合理的ではないものや、仕組みに回収されない「見えない存在」を感知する人間性があると言います。それは神性な存在に惹かれながらも生きて、やがて死にゆくという普遍性から解放されないジレンマを抱えた人間の生でもあります。
佐々木はある種の崇高性が担保され、直線的なモダニズム思考の世界で削ぎ落としと純化が進んだ歴史を背負う抽象と、女性の肉体を持って今を生きる自身との距離を注意深く感じながら制作を重ねています。生の内に、原初的な身体性の共感覚や記憶、意識や無意識、肉体や生殖器官などの連係を見る彼女の作品には、螺旋や円環、立体物として現れる植物や鉱物、身体といった、生活世界にも見出せるモチーフが用いられています。それらが彼女の絵画平面と画前面に滲出・拡張される時、物理的に<見える>イメージと、そこに潜む<見えない>触覚性 *1は、観る者にどのような体験世界を立ち現すでしょうか。自身の実践について「具体と抽象の間の矛盾を引き受けながら」と語る佐々木は心理学や図像研究にも依拠しながら、絵画で示される抽象イメージに具象的な彫刻イメージを配置することで「抽象的な形象が名前を持った違うものに観えてくる」可能性も期待しています。その空間では具象的な彫刻もまた、抽象的なイメージへと反転変化されてゆきます。*2
美術史家のゴットフリート・ベームは、「見せること」には必然的に「隠すこと」が伴い*3、「現前」と「不在」は不可分の対をなしていると言います。そこでは否定性や差異が作動し*4、視覚とのやりとりにおいて何らかの理解内容を結実させていく過程を産みだすと。佐々木にとって、それは認識の錯覚から解放され、不可視なものを感覚的なものの経験へと柔軟に交差・増幅させる場と言えるかもしれません。
絵画面に刻まれたひとつひとつの筆致やにじみ、楕円形状の波動や光のゆらぎ、身体部位の彫刻など、展示空間で広がるイメージの往還に、佐々木は自身の肉体とイメージの連鎖や運動性を見ています。例えば古来より女性のフォルムや衣服の襞の表現にも使用されてきた陶を用いた頭部の彫刻は、その施された艶やかな漆黒の釉薬が精神性や闇、月の満ち欠けへと投影され、丸めた指が輪を形取る手の彫刻には、洞窟への隠喩や彼方とこちらを結びいざなう時間性が包蔵され、やがてそれは粘度をもって形造られ反復する蔦の形象へと連続してゆきます。異なる事物を超えたこの流動的な運動は、佐々木を媒体として内的になされた経験の象徴でもあり、生成と関係性の運動、その実践は、あらゆる形象もつながりも結ばれてはまた自由に解かれうるという佐々木の考えを反映しています。そしてその循環はまた、観る者の記憶や想像力、体験へと開かれています。彼女はそこで、人間の営みの中で見落とされてきた弱さや曖昧さ、柔らかさも拾いあげ、時に鮮烈かつ生々しい手つきで生と水平性を指し示しながら、触覚的で潜勢力を持った表象へと向かっています。
( 山越紀子|キュレーター )
山越紀子 |インディペンデント・キュレーター、ライター。チューリッヒ芸術大学(キュレーション)修士。主な近年の展覧会に「Games.Fights.Encounters」(2020-2021)「Choreographing the Public」(2019-2020)、共同執筆に 「la_cápsula – between Latin America and Switzerland: An Exploration in Three Acts」(2020)、インタビューエッセイに「《MJ》田村友一郎」(2019)など。
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*1 アロイス・リーグルは触覚性を視覚性への移行と見ていましたが、ベンヤミンは触覚を意識的な視覚の外部にあり、捉え得ない視覚的無意識に関わっているとして、その回帰を指摘しています。
*2 佐々木の第一回目個展における自身のステートメントにおいても、この考えは既に顕在化しています。「一つの秩序だけが別の秩序と交わると、お互いの構造を破壊します。しかし、逆に言えば、それはお互いを補完し、変化させるものとも言えます」
*3 佐々木の制作には絵画の「向こう側」という感覚への意識があります。隠されている部分や弱さ、欠損、視覚的には認識できるが肉体的には触れることが叶わない状態にリアリティを感じるという佐々木は、それらが可能にする相反性が想像力を生むのではないかと考えています。
*4 これまでの自身の作品に見られる「コラージュ的」要素について、佐々木はその念頭にシュルレアリスムやコンバイン・ペインティングなどでも採用されてきた、異素材がぶつかり合い新しいものが生まれるという異化作用があったと言及しています。
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(佐々木成美個展に寄せて|志賀理江子)
自分の手よりも少し大きく
非現実的なまでに黒く滴るよう
美しく焼かれた手は指で小さな輪を作っていた
「わたし、目が悪いんです、でもあまり眼鏡をかけなくって、それで指でこうやって望遠鏡みたいに輪して覗くんです、すると少しはっきりするから、それで駅の時刻表なんかを見たりして事済ませてます」
そう彼女は言い
「それでこの、指で輪っかをつくるこの仕草が気になって、この輪は、指をぱっと外すだけで魔法が解けたみたいに、ほら、円を解くことができる」
そして、このことをとても気に入っている、と続けた
彼女にとってあらゆる物事の関係性は開かれるべきもので
その深度は色として現れる
自らの表現によってその濃淡の間をいったりきたりすること
そのグレデーション自体を描くことで創り出すこと
そのために体を使うこと
その先端に、感じやすい手が、指の先が、性の結び目のようにしてある
彼女にとって「何を見るか」は「何を見出すか」と同義
だから自ずと彼女の絵からは、ある形を帯びたものが立ち上がってくる
見る人によってそれは、記憶の奥底に沈むものを呼ぶトリガーのように、フックのように働く
絵はそこに留まることをしない
ひとつをつなげるとふたつに、そこにもうひとつつなげればみっつに
彼女はどこまでも見ようとする、過激なまでに
これは私ひとりの世界
けどあなたはここに入ってくることもできる
出て行くこともできる
「これは優しさではない、私はその言葉を警戒します」
志賀理江子|写真家。愛知県生まれ。2008年より宮城県に移り住み、人間社会と自然の関わりや記憶、精神の根源などを題材にした作品制作を続けている。写真集『Lilly』(2007)『Canary』(2008)で、第33回木村伊兵衛写真賞を受賞。近年の主な展覧会に「さばかれえぬ私へ」(2023、東京都現代美術館)、「SHÉHÉRAZADE LA NUIT」(2022、パレ·ド·トーキョー) 、「志賀理江子 ヒューマン·スプリング」(2019、東京都写真美術館) 、「志賀理江子 ブラインドデート」(2017、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館)など。ロンドン芸術大学チェルシー·カレッジ·オブ·アート·アンド·デザイン ファインアート、ニューメディア専攻修了。
オープニングレセプション:3/15[金]17:30-19:30