生誕150年 池上秀畝―高精細画人― ~僕は旧派でも新派でもない~

池上秀畝《松に白鷹・桃に青鸞図》表・裏昭和3年(1928) 杉戸絵オーストラリア大使館

池上秀畝《松に白鷹・桃に青鸞図》表・裏昭和3年(1928) 杉戸絵オーストラリア大使館

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会 期
20240316日 -  20240421
開催時間
10時00分 - 18時00分
入館は17時30分まで
休み
月曜日
入場料
有料
一般1000円、高校・大学生および65~74歳800円、中学生以下および75歳以上無料(その他各種割引制度あり)
※一般以外の方(無料・割引対象者)は、年齢等が確認できるものをお持ちください。 ※一度観覧された方は初回のチケット半券を受付に提示すると300円割引。 ※ご来館にあたっての注意事項等につきましては、当館のホームページをご確認ください。
作品の販売有無
展示のみ
この情報のお問合せ
練馬区立美術館
情報提供者/投稿者
開催場所
練馬区立美術館
住所
〒176-0021 東京都
練馬区貫井1-36-16
最寄り駅
中村橋
電話番号
03-3577-1821

詳細

展覧会内容

池上秀畝(いけがみしゅうほ)(1874-1944)は、長野県上伊那郡高遠町(現在の伊那市)に生まれ、明治22年(1889)、本格的に絵を学ぶため上京。当時まだ無名だった荒木寛畝(あらきかんぽ)の最初の門人・内弟子となります。大正5年(1916)から3年連続で文展特選を受賞。また、帝展で無鑑査、審査員を務めるなど官展内の旧派を代表する画家として活躍しました。
同じく長野県出身で同い年の菱田春草(ひしだしゅんそう)(1874-1911)らが牽引した「新派」の日本画に比べ、秀畝らの「旧派」と呼ばれる作品は近年展覧会等で取り上げられることは少なく、その知名度は限られたものに過ぎませんでした。しかし、伝統に基づく旧派の画家たちは、会場芸術として当時の展覧会で評価されたことのみならず、屏風や建具に描かれた作品は屋敷や御殿を飾る装飾美術としても認められていました。特に秀畝は徹底した写生に基づく描写に、新派の画家たちが取り組んだ空気感の表現なども取り入れ、伝統に固執しない日本画表現を見せています。
本展は生誕150年にあたり、秀畝の人生と代表作をたどり、画歴の検証を行うと共に、あらたなる視点で「旧派」と呼ばれた画家にスポットを当てる展覧会です。

[みどころ]
●代表作を余すことなく展示
秀畝は国が主催するいわゆる官展(文展・帝展)を主な発表の場としており、数々の栄えある賞を受けています。今では行方不明となってしまった作品も多い中、所在調査を重ねて確認された9作品を展覧いたします。どれもその時代を代表する力作揃いで、これだけの出品作が出揃うのは今展が初めてです。

●大作を数多く、そして、間近に展示
秀畝作品の醍醐味は画面の大きさ、絢爛さにあります。この展覧会では縦約2メートル、横7メートルを超える屏風作品を数多く展示。それ以外にも板戸(杉戸絵)に描かれた作品や縦横2メートルを優に超える額なども登場します。また、一部の屏風は、ガラス越しではなく畳に座って間近で鑑賞できるように展示。本来の屏風の姿を味わってください。

●写生帖を初公開
秀畝はその習画期から晩年まで写生を欠かさなかったようで、持ち歩きサイズのスケッチブックから画室に戻って彩色を施した画帖までおびただしい数の写生を遺しています。この中には実際の作品の源泉につながるものばかりでなく、完成作では見られないような人物スケッチ、市井の風俗・風景、西洋画の模写など、様々なテーマや技法に取り組んでいます。屏風や掛軸では見られない秀畝画の懐の広さと共に、その視線から秀畝の人となりをうかがい知ることができます。

[展示構成]
プロローグ 秀畝と春草 旧派と新派
 秀畝は高遠で代々紙問屋を営む商家に生まれ、祖父は狩野派のお抱え絵師に学び、父も四条派の岡本豊彦の弟子に就いていたといわれています。南北に離れているものの同じ伊那谷に生まれた、同い年の春草の家は代々飯田藩士で、父は維新後に銀行員として働きました。
秀畝は15歳の時、父の勧めで江戸時代の谷文晁(たにぶんちょう)の流れから続く南北合派の絵師、荒木寛畝(1831-1915)の住み込みの弟子となります。一方の春草も東京物理学校(現、東京理科大)を卒業した兄に呼ばれ15歳で上京、この年にできた東京美術学校(現、東京藝術大学)に翌年9月に入学しています。
 徒弟制度と学校制度。二つの異なる教育制度の中で培われた二人の日本画家は旧派と新派に分かれていくことになります。

第1章 国山から秀畝へ 初期の作品
 秀畝は父から手ほどきを受け、少年期から“国山”と号して絵を描いていました。15歳で上京し、荒木寛畝の内弟子となり明治23年頃より“秀畝”を名乗るようになったといいます。師匠の寛畝は伝統的な書画ばかりでなく、一時期は高橋由一、五姓田義松と並び称される油彩画の名手であり、その写生を重んじる修練が秀畝の作品には脈々と息づいています。ここでは秀畝の初期作と師匠である寛畝の作品を通して秀畝の学習の一端を探ります。
 荒木寛畝の《狸図》は現在唯一残る油彩画の作品。浅草奥山花屋敷の動物園から狸を借りて写生したといいます。背景はやはり浅草田圃で高橋由一に勝るとも劣らぬ描写力です。こうした油彩画のリアリズムが一番弟子の秀畝の絵にも伝わっています。
 《日蓮上人避難之図》は秀畝37歳の作品。日蓮の結んだ草庵が放火にあうが、それを察した白い猿が危機一髪、日蓮を逃がし導いたという霊験を描いています。花鳥画を主とする後年には見られない人物描写の確かさや、物語を表現する構図の巧みさが見られる一幅です。

第2章 秀畝の精華 官展の出品作と代表作
 寛畝が主催する展覧会や旧派の公募展で力をつけた秀畝は、文展(文部省美術展覧会)のスタート時から意欲的に作品を出品します。ここで横山大観や菱田春草ら東京美術学校に学んだ新派の日本画家たちと相まみえることとなるわけです。3回目の出品となる第4回文展で《初冬》が三等賞受賞、これ以降毎年褒状を受け、ついに第10回の《夕月》から12回の《四季花鳥図》まで3年連続特選を受賞するという快挙により押しも押されもせぬ画壇の大家へとなっていきます。一方で、皇室に献上された《国の華》(三の丸尚蔵館蔵、長野会場のみ展示や旧蜂須家侯爵邸を飾った杉戸絵《松に白鷹・桃に青鸞図》といった作品群は伝統の中に近代性を生かす秀畝ならではの仕事で、皇族や華族らの御殿や屋敷を飾るものとして珍重されていた様子がうかがえます。

第3章 写生 師の教え
 信州高遠美術館には秀畝の遺品である写生帖やスケッチ画が数百件遺されています。師匠の寛畝は写生の重要性を秀畝に説き、日々の日課として写生帖の提出をもとめたといいます。秀畝はこれに応え、市中、動物園などにも足しげく通い、得意の鳥や花ばかりではなくあらゆる動物や風景、人々の営みを写生しています。ここでは本画に至る秀畝の筆力の豊かさをご覧いただきます。

第4章 秀畝と屏風
 文展や帝展といった展覧会に出品する作品は会場映えするように掛軸でも、額面でも大型のものが主流で、もちろん、六曲一双の屏風などは日本画会場の花形でした。しかし、秀畝はそうした出品作以外でも多くの屏風作品を制作しています。それは秀畝の需要層が古くから続く旧家、大家が多かったことを物語っています。
 この展覧会では屏風を間近に、座敷で見るのと同じ感覚、体験を味わってもらえるような工夫をしています。
 また、大画面を得意とした秀畝は障壁画制作にも携わっていました。現在、見ることができるのは目黒雅叙園(ホテル雅叙園東京)の「秀畝の間」や百段階段の「静水の間」の天井絵などで、これらは今回新たに撮影した映像でご覧いただきます。また、かつて雅叙園を飾る欄間であった《飛蝶》3面は今回新発見となる作品です。
 一方、最晩年の《神風》は元寇をモチーフとした作品で、時節柄、戦勝祈願が目的ではありますが、色遣いを抑え、自然の猛威を俯瞰的にとらえています。静かながらも力強い表現はいつもの華やかさとは異なる、秀畝の集大成を見るかのようです。

※4月1日(月)に一部展示替えを行います。

主催・協賛・後援

主催:練馬区立美術館(公益財団法人練馬区文化振興協会)
共催:長野県立美術館
助成:美術館連絡協議会、読売新聞社

関連情報

【長野県立美術館へも巡回 】
本展は長野県立美術館でも開催 します。 (会期 :2024年 5月 25日 (土)~ 6月 30日(日) ))
詳細は長野県立美術館のホームページ 等で公開される情報をご確認ください。

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