四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎
会期: 2024-01-31 - 2024-03-24
参加クリエイター:
展覧会詳細
展覧会ジャンル:
アート
展覧会タグ:
日本画
平面
開催内容
サントリー美術館(東京・六本木/館長:鳥井信吾)は、2024年1月31日(水)
から3月24日(日)まで「四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎」を
開催いたします。
有楽斎(うらくさい)こと織田長益(ながます)は天文16年(1547)に織田信秀の子、織田信長の弟として生まれました。武将として活躍し、晩年には京都・建仁寺の塔頭「正伝院(しょうでんいん)」を再興、隠棲します。正伝院内に有楽斎が建てた茶室「如庵(じょあん)」は国宝に指定され、現在は愛知県犬山市の有楽苑内にあり、各地に如庵の写しが造られています。
正伝院は明治時代に「正伝永源院(しょうでんえいげんいん)」と寺名を改め、いまに至るまで有楽斎ゆかりの貴重な文化財を伝えています。
しかし茶人・有楽斎として名高い一方、武士・長益には悲観的なイメージも伴います。天正10年(1582)に起きた本能寺の変では、二条御所に籠る長益の主君・信忠(信長の長男)が自害したにもかかわらず、長益は御所を脱出したことから、京の人々には「逃げた(男)」と揶揄されました。さらにその後、信雄(信長の次男)に仕え、徳川家康と豊臣秀吉の講和を調整するなど存在感を示したものの、信雄が改易されると今度は秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)に加わります。関ヶ原の戦いでは東軍として参戦し、戦後も豊臣家に仕えましたが、大坂夏の陣の前には家康の許可を得て主君から離れました。
信長、秀吉、家康の三天下人に仕えて時流を乗り切り、晩年を京で過ごした織田有楽斎の心中には、どのような思いがあったのでしょうか。本展覧会は、2021年に400年遠忌を迎えた織田有楽斎という人物を、いま一度総合的に捉えなおそうと構成したものです。
《展示構成》※展覧会会場では、章と作品の順番が前後する場合があります。
第1章 織田長益の活躍と逸話―“逃げた男”と呼んだのは誰か
織田長益は、天文16年(1547)に織田信秀の十一男として生まれ、幼名を源吾(あるいは源吾郎)といいました。信長の13歳下の弟にあたります。史料上、明確に姿をみせるのは天正期頃に遡り、各種の重要な儀礼に参加するなど、織田家の有力な武将としての長益の姿が知られます。
しかし天正10年(1582)、明智光秀が謀反を起こし、本能寺において織田信長が自刃すると、彼の命運も激変することになりました。本能寺の変の時、長益は織田信忠と共に誠仁(さねひと)親王がいる二条御所に移り、ここで敵襲を受けました。親王を逃走させると信忠は自害しましたが、長益は城から脱出し、一説には安土を経て岐阜へ向かったと伝えられます。仕えている主君が自害し長益は難を逃れたことから、風聞書などのいくつかには、長益に“逃げた男”というレッテルを貼り、悪し様に評するものもありますが、果たしてそうでしょうか。本章ではこの点に立脚し、武将・織田長益の実像を、歴史資料を通して見つめなおします。
第2章 有楽斎の交友関係
本能寺の変の後、長益は豊臣秀吉に仕え、摂津国島下郡味舌(しましもぐんました)(現在の大阪府摂津市内)に二千石の知行を与えられました。
秀吉の没後は徳川家康との関わりを深くし、関ヶ原の戦いでは石田三成の軍勢と戦をまじえて戦功をあげ、本領を安堵されただけでなく大和国山辺郡(現在の奈良県山辺郡)に知行地を与えられました。その後、大坂城に入り淀殿の叔父として淀殿・秀頼母子を補佐しましたが、常に徳川方へ配慮し、冬の陣においては豊臣・徳川の間で和議を結ぶよう説得しました。
戦国時代から江戸時代にかけての激動の時代、長益は有能な大名としての地歩を固めていきますが、夏の陣を前に京都・二条へ移り、また建仁寺塔頭・正伝院を再興し、ここを隠棲の地とします。もともと長益は利休も一目を置く茶人であり、法躰となり有楽斎と号した後も茶の湯に執心し、高僧や、古田織部、細川三斎、伊達政宗などの武将と結びながら茶会を開いていきます。これらの活動を示す書状はいまも正伝永源院に多く残り、茶人としての姿をよく示しています。本章では、有楽斎が残したこれらの書状を用いて、茶人としての彼の姿に光を当てます。
第3章 数寄者としての有楽斎
有楽斎は茶の湯を介して大名、高僧、町衆との交流を深め、正伝院を終の住処とする頃にはすでに当時の茶の湯に重要な役割を果たすようになっていました。
正伝院に茶室「如庵」を造営し、茶の湯三昧の日々を送った有楽斎が生前に集めた茶道具は、没後、孫の織田三五郎(長好(ながよし))が引き継ぎます。その後、これらは織田三五郎の遺言によって形見分けされ、残りは正伝院に寄進されました。残念ながら
これらの道具類の行方は、現在ではほとんど分かりません。
しかしながら今日各地に伝わる、かつて有楽斎が所持した、あるいは好んだと伝わる茶道具の名品から、数寄者としての有楽斎の姿に触れることができます。
本章では有楽斎旧蔵の伝来を持つ茶道具、また「有楽好み」をうかがい知ることのできる品々をご紹介します。
第4章 正伝永源院の寺宝
臨済宗建仁寺派の塔頭寺院である正伝永源院(京都市東山区)には、「正伝院」と「永源庵」の二つの歴史があります。
正伝院は鎌倉時代中期の文永年間(1264~1275)に開山し、永源庵は南北朝時代の正平年間(1346~1370)に開山したと伝わっています。
永源庵は当時の守護大名・細川頼有の帰依を受け、細川家の菩提寺となりました。一方、正伝院は元和年間(1615~1624)に織田有楽斎により再興され、隠居所と茶室「如庵」が建てられました。
その後、明治時代の神仏分離令や廃仏毀釈の影響で、堂宇のみを残して無住となっていた永源庵に正伝院が移ることとなり、永源庵が廃寺となります。その際、「永源」の名が残ることを願った細川侯爵家からの提案もあり、寺名は正伝永源院と改められました。
以上のような寺史を持つため、現在の正伝永源院に伝わる寺宝は、必ずしもすべてが織田有楽斎の生きた時代から所蔵されていたものと断定はできません。しかしながら《織田有楽斎像》をはじめとする絵画、墨蹟類、そして寺内に残る狩野山楽の襖絵など、貴重な寺宝が現在も脈々と継承されています。本章では有楽斎没後の正伝院に納められた寺宝を中心にご紹介します。
第5章 織田有楽斎と正伝永源院―いま、そしてこれから―
戦国の世に生を受け、織田家の血筋として時の政治に利用されながらも生き抜き、茶人として大成した有楽斎。現在に伝わる有楽斎の茶風は、有楽斎の格式張らずにそのままの姿で客をもてなす心を体現しているとも言われます。
本章では、正伝永源院と寺号を改めた後に納められた寺宝を中心にご紹介します。
また、有楽斎が茶道の師として敬愛した武野紹鷗(たけのじょうおう)の供養塔の拓本や供養塔設置時の動画なども展示します。さらに、現在は愛知県犬山市の有楽苑に移築されている国宝の茶室「如庵」および重要文化財の「書院」の3次元計測データを、裸眼で立体視を可能とする“空間再現ディスプレイ”を使ってジオラマのように立体として表示する3D展示の設置も予定しています。