開催時間 |
10時00分 - 20時00分
月土日祝:10時00分 - 18時00分 入館は閉館 30 分前まで ※開館時間は変更する場合があるため、美術館公式HP等でご確認ください。 |
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休み |
2月5日、3月4日
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入場料 |
有料 一般1,800円(1,600円)/ 大高生1,400円(1,200円)/ 中小生500円(300円) ※( )内は前売りおよび15 名様以上の団体料金。 ※観覧料はいずれも税込。 ※前売券は2023年11月23日(木・祝)から2024年2月1日(木)まで販売。 ※障がい者手帳をお持ちの方は、美術館チケットカウンターで購入されたご本人と付き添いの方1名様まで当日料金の半額。 |
展覧会の撮影 |
不可 一部可 |
この情報のお問合せ |
06-4399-9050 (あべのハルカス美術館)
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情報提供者/投稿者 |
住所 |
〒545-6016 大阪府
大阪市阿倍野区阿倍野筋1-1-43 あべのハルカス16階 |
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最寄り駅 | 天王寺 |
電話番号 | 06-4399-9050 |
2024年2月2日(金)~4月7日(日)の期間、大阪・あべのハルカス美術館にて「円空―旅して、彫って、祈って―」を開催いたします。本展はあべのハルカス美術館の開館10周年を記念する展覧会です。
生涯に12万体の仏像を彫ると誓ったといわれる江戸時代の僧・円空(えんくう、1632-1695)。円空は修験道(日本古来の山岳信仰が、役行者(えんのぎょうじゃ)を始祖として仰ぎ、外来の密教などと習合して、平安時代末に成立した一つの宗教体系)を修めた僧です。山岳修行によって超自然的な力を獲得し、その力を用いて人々を救う活動をする宗教者です。円空はその実践として、各地の霊場を旅し、神仏を彫り、祈りを捧げました。円空が彫った神仏は、あるものは優しい微笑みをたたえ、あるものは迫力のある怒りの相を表し、多くの現代人の心をも惹きつけてやみません。
生誕、入寂の地である岐阜県や愛知県、三重県など東海地方を中心に北海道から近畿地方まで円空の足跡は遺されています。本展では、「円空仏」とよばれ親しまれている彫刻はもちろん、絵画や文書など円空の人柄に触れることのできる貴重な史料により、円空の生涯と活動を追っていきます。
円空の生涯や、人々の切実な祈りや願いに寄り添って作られた「円空仏」は、コロナ禍を経験した我々にとって、時空を超えて力になり、励ましとなるものでしょう。また、2024年は紀伊山地の霊場と参詣道が世界遺産に登録されて20年という節目の年でもあり、修験の行者が育んだ文化に注目が集まっています。
こうした機をとらえて、素朴ながら力強く温かい「円空仏」の魅力を改めて多くの人々に感じていただくことを目指し、本展を開催いたします。
[展示構成]
第1章 旅の始まり
円空はみずから壬申年(寛永9年(1632))美濃国で生まれたと記しています。円空が亡くなってから100年近く経った寛政2年(1790)に出版された『近世畸人伝(きんせいきじんでん)』には約100人の有名無名の江戸時代の奇特な人物の逸話を伝えていますが、その一人として取り上げられ、幼いころに出家し、23歳の時、寺を離れ富士山や白山に籠ったと前半生について記されています。しかし、円空の同時代資料には、そのことを明らかにするものは残っていません。今日伝わる円空のもっとも古い作品は寛文3年(1663)数え年32歳のときに彫ったものとされています。その後には円空は東北から北海道へも旅をしました。
この章では、円空が神仏を彫り始めたごく初期に岐阜や三重でじっくり丁寧に作ったと思われる作品のほか、北海道での事績を伝える文献資料、円空の肖像画などを展示し、円空の人となりや初期の造仏活動を紹介します。
第2章 修行の旅
寛文11年(1671)、40歳の円空は奈良の法隆寺において法相宗の法系に連なる僧であると認められました。これにより釈迦からインドの無著(むちゃく)・世親(せしん)や中国の玄奘(げんじょう)、奈良時代の名僧・行基(ぎょうき)らの法系に連なる僧であるという自覚も生じたことでしょう。さらに円空の旅は続きます。岐阜、愛知、三重のほか、奈良の吉野大峰山・笙の窟(しょうのいわや)で越冬参籠(えっとうさんろう)も修め、修験の行者としての修行を積み重ねていきます。その間に円空の彫刻の作風もだんだんと変化し、初期の表面がすべすべとした丁寧な作風から、よりごつごつとした大胆な作風へと変化していきます。
この章では、法隆寺の大日如来坐像、愛知県・荒子観音寺の諸像など、この時期の作風の変化を辿ることができる作品とともに、円空が修理し、見返し絵を描いた大般若経などを紹介します。
第3章 神の声を聴きながら
延宝7年(1679)、48歳の円空は白山神の託宣を聴きます。その意味するところは「円空の彫る像は仏そのものである」ということでした。このことは、円空に仏を彫ることの意義についての確信を与えたことでしょう。円空の造仏活動はますます盛んになっていきます。また、この年には滋賀県・園城寺において、園城寺を本山とする天台宗寺門派の密教の法を継ぐ僧であることを認められます。これで毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)から印度の竜樹(りゅうじゅ)、中国の天台大師、平安初期の智証大師(円珍)らの法系にも連なることになりました。それから円空は、関東の修験の寺院や霊場を巡って修行の旅を続けながら作品を残しています。
この章では、園城寺の善女龍王立像や埼玉、栃木に残るものも含め、力のみなぎった50歳前後の円空の作品を紹介します。
第4章 祈りの森
前述の『近世畸人伝』には、円空の伝とともに、円空と交友のあった飛騨の千光寺の住職・舜乗(しゅんじょう)の人となりも記されています。人を疑うことを知らないと伝えられた舜乗と意気投合して、円空はしばし緑豊かな森に抱かれた千光寺に滞在し、彫刻に没頭したものと思われます。円空は『近世畸人伝』に取り上げられたり、地方の地誌類には事績が記されたり、円空が滞在した地元では愛されていましたが、近代になると美術の歴史の中ではほとんど忘れられてしまいました。再び注目され、現在の評価に至るのは、彫刻家・橋本平八(1897-1935)が昭和6年(1931)にこの千光寺で円空仏を発見したことに端を発します。円空が千光寺に滞在したのは貞享2年(1685)前後だと考えられますが、この時期は円空のもっとも充実した時期といってよいでしょう。
この章では、両面宿儺(りょうめんすくな)坐像や立木仏(地面に生えたままの樹木を彫って作られた仏像)として彫られたと伝わる金剛力士(仁王)立像をはじめ、千光寺に伝わる円空仏の数々を紹介します。
第5章 旅の終わり
千光寺に滞在した前後から晩年の10年間、円空は飛騨や美濃を中心に、ときには伊吹山、日光、木曽などを旅し、神仏を彫り、祈りを続けています。元禄2年(1689)には、園城寺から、円空が再興した弥勒寺が天台宗寺門派の末寺に加わることを許されました。翌年には岐阜県・桂峯寺の今上皇帝立像の背面に「當国万仏十マ仏作也」と墨書銘を記しました。この銘文の意味するところについては意見が分かれますが、円空が10万体を彫り上げたという解釈もあります。いずれにしろ、円空が一つの区切りを感じて記したものといえるでしょう。この後も円空は神仏を彫り続けますが、元禄5年(1692)、岐阜県・高賀神社での造仏以降は確かな作品は見られなくなります。元禄8年(1695)、64歳の円空は弥勒寺を弟子に譲り、弥勒寺の傍らを流れる長良川の岸辺で亡くなったと伝えられます。
この章では、晩年の約10年間に作られたと考えられる飛騨、美濃地方に残る多様な円空仏を紹介します。
主催:あべのハルカス美術館、NHK大阪放送局、NHKエンタープライズ近畿、朝日新聞社
協賛:NISSHA
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