辻 永(つじひさし) ふたつの顔を持つ画家 ―油彩と植物画―
会期: 2022-10-25 - 2022-12-11
参加クリエイター:
展覧会詳細
展覧会ジャンル:
アート
展覧会タグ:
開催内容
辻永(つじひさし 1884~1974)は、広島で生まれ、生後ほどなく父の仕事の関係で水戸に移り、以後この地で育ちました。東京美術学校西洋画科で黒田清輝や岡田三郎助に学び、在学中から白馬会展に入選するなど頭角をあらわします。1906(明治39)年の卒業後、1907年から始まった文部省美術展覧会(文展)に第2回展から出品。受賞を重ねて画家としての地位を確立していきました。
辻は、自宅で飼っていた山羊をモティーフにした「山羊の画家」として本格的な画業をスタートさせましたが、1920(大正9)年から翌年にかけての滞欧を経て、帰国後は風景画家としての道を歩みます。各地を旅して湿潤な日本の風景を描き続け、帝展、新文展、戦後は日展で活躍しました。1958(昭和33)年に日展が社団法人化されるとその初代理事長に就任、1959年に文化功労者となり、1964年には勲二等瑞宝章を受章しています。
このように大正から昭和の洋画壇で活躍した姿が、辻のいわゆる“オモテの顔”です。一方で辻は、植物学者を目指したこともあったほど少年の頃から草花を愛し、生涯にわたって2万枚以上ともいわれる植物画を描いた“もうひとつの顔”を持っていました。これらの植物画は、発表目的ではなく、純粋な楽しみ、あるいは心の慰めとして描かれたものですが、その一部は『萬花図鑑』(1930 年)、『萬花図鑑続集』(1932年)や『萬花譜』(1955年)として出版されました。
本展では、山羊を描いた初期作品から後年の風景画にいたる、洋画界で活躍した辻のいわゆる“公”の油彩作品と、自身の楽しみとして描いた“個”のための植物画を紹介し、“ふたつの顔”を持つ辻の本質に迫ります。
[展示構成]
序章
辻永は、1884(明治17)年に広島で生まれましたが、生後ほどなく、官吏であった父の新任地である水戸に移り、以後この地で育ちました。旧制水戸中学卒業後、東京美術学校西洋画科で学び、在学中から白馬会展に入選するなど頭角をあらわします。序章では、若き日の辻が自らの父母を描いた肖像画を紹介します。
第1章 「山羊の画家」の時代
1908(明治41)年、辻は家族と共に東京府渋谷村(現在の渋谷区恵比寿)に移り、山羊園を開きました。この山羊園では、弟が山羊を飼育し、辻は山羊をモティーフにした作品の制作に没頭しました。辻は、毎年文展に山羊を描いた作品を出品して受賞を重ね、「山羊の画家」として知られるようになります。山羊の群れのいる牧歌的な風景を描いたこの時期の作品は、当初、印象派とアカデミスムを折衷した外光派的な表現をみせましたが、やがて平面的な構図と彩色を特徴とする装飾的な作風へと移行しました。
第2章 ヨーロッパ滞在
1920(大正9)年から翌年にかけて、辻はヨーロッパに滞在し、パリを拠点にベルギー、オランダ、スペイン、イタリアなど各国を精力的に巡り、現地の風景を油彩画に描きました。辻は、落ち着いた色合いと簡略化した筆致で歴史ある町並みを描くなど、それまでの作風とは異なる新たな表現を試みています。
第3章 植物画
辻は少年の頃から草花を愛し、旧制中学時代から生涯にわたって2万枚以上ともいわれる植物画を描き続けました。これらの植物画は、公に発表することが目的ではなく、個人的な楽しみ、あるいは心の慰めとして描かれたものですが、その一部は『萬花図鑑』(1930年)、『萬花図鑑続集』(1932年)や『萬花譜』(1955年)として出版されました。緻密な描写で草花の特徴を捉えたそれらの作品は、植物に対する辻の深い愛情と類いまれな探究心の結晶であり、見る者を惹きつけてやまない魅力をたたえています。本章では、辻の植物画の中から60点を紹介します。
第4章 帰国後の多彩な作品
1921 (大正10)年にヨーロッパから帰国した辻は、国内の風景画を数多く手がけるようになります。その表現は当初、滞欧期の作品にも通じる落ち着いた色合いを主調としたものでしたが、1940年代以降は、大胆な筆致と鮮やかな色彩が際立つ独自の作風を確立するに至ります。本章では、多彩な表現を見せながら展開した辻の風景画を振り返るとともに、身近な光景を描いた1930年代の作品などを紹介します。
このほか、東京美術学校で師事した黒田清輝、また同校で交友を深めた森田恒友、そしてヨーロッパ滞在中に旅を共にした三宅克己など、辻と関わりのあった作家たちについて紹介するコーナーを設けます。