開催時間 |
10時30分 - 18時30分
最終日15時00分まで |
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休み |
日
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入場料 |
無料 |
作品の販売有無 |
販売有 写真集『骨の髄』(新宿書房) W257*H250 上製 132頁 定価5300円+税 |
この情報のお問合せ |
銀座ニコンサロン
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情報提供者/投稿者 |
住所 |
〒104-0061 東京都
中央区銀座7-10-1 STRATA GINZA(ストラータ ギンザ)1・2階 |
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最寄り駅 | 銀座 |
電話番号 | 03-5537-1469 |
<写真展ステートメント>
この写真展は、イギリス、ジョージア、ボリビア、日本で行われている5つの祭事のシリーズで構成されている。これら5つの祭事の形態は、肉と肉がぶつかり合う格闘とも言える身体行為である。現代社会の常識と照らし合わせると、いくらハレの日であっても非常識と顔をしかめる人もいるかもしれない。それを否定するつもりはないが、どの祭事も数百年の歴史があるのである。これらの祭事が連綿と続いているのは、その集落の人々にとって、五穀豊穣や無病息災を祈るだけでなく、その文化のなかに、先人から受け継いでいる知があるからだろう。
では、それは何なのか?
格闘するという形態が、言葉以前のコミュニケーションとして、隣人同士の友好関係の維持に一役買っているというのは想像がつく。バランスを取るためと言っても良い。祭事にはそういう側面もあるからだ。また、普段抑え付けている人間の動物的な部分を解放し、自己の身体性を見せつけることによって、日々の不満や抑圧から自己を爆発させる場とも考えられる。現代風に言えばストレス発散をさせる。100年前だろうが1000年前だろうが、人間が社会というものを作った時から、大なり小なりのストレスを人々は抱えていたはずだ(現代とは違う種類のものかもしれないが)。そういう場を神が用意したと考えられなくもない。
だが、血を見るほどの格闘のなかにいた者として、これだけでは言い得ていない気がするのだ。
「Shrove Tuesday」のどこにでも突っ込んでいく執念と衝動、「骨の髄」の竹が振り下ろされた時の衝撃と痛み、「Charanga」の震えあがるようなパンチの応酬、「手負いの熊」のむせ返るような煙と火、「Opens and Stands Up」の群衆に押しつぶされる恐怖、それを実際に体感した時に生まれる、上っ面の言葉では伝えることの出来ないものが、祭事の後にいつも残る。
どの祭事においても、参加する者に何故闘うのか?と問うてもあまり意味がない。「それがそこにあるから」という様な答えが返ってくるだけだ。だが、ある祭事での会話のなかで、興味深い言葉があった。季節感(風向きや日差しなど)や街の喧騒などの情感で、そろそろ祭りが来るなと思うそうである。まるで祭りの方から向かってくる様な言い回しで。祭事は、先人たちの霊魂、神そして自然の様々な精霊たちとの対話の場である。「祭事」を「自然」もしくは「神」と置き換えて、「向かってくるもの」と考えると、「格闘の祭事」は「自然の猛威」とみることも出来る。「自然の猛威」が差し迫った時、我々人間はその困難に立ち向かい必死に生きようとするだろう。何しろ自分の生死、実存の問題であるのだから。
格闘するという形態が、人間が手にしてきた倫理や道徳といったものを、一瞬吹き飛ばす。その時、ここにいるのは、生きること以上の意味など必要ないかのような、「倫理以前の人間」たちなのだ。
もし「祭事」の方から向かってくるのであれば、その生へのエネルギーの矛先は、ボールでもなく隣人でもない。神や自然が放った“獲物”であり、“神や自然”そのものへ向かう。獲物を仕留めようとする側と獲物として仕留められまいとする側を行き来しながら、彼らは生きるために闘っているのではなかったか。その“獲物”は、写真に写ってはいないが、彼らの姿をみていると、また実際に体感した者として、それはそこにいた、と思う。
先に「倫理以前の人間」と書いたが、この困難や恐怖を乗り越えた時、我々人間は倫理や道徳を手に入れてきたのではないか。もしそうであるならば、「格闘の祭事」は、“人間たらしめる生きるための闘い”である。その実践的経験の場が、これらの祭事であり、先人達の知であり、自然や神からの恵みなのではないだろうか。