大槻香奈展「乳白の街」

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会 期
20111012日 -  20111030
開催時間
11時00分 - 19時00分
休み
最終日の展示は18:00までとさせて頂きます。
月曜定休
クリエイター在廊

10/12
この情報のお問合せ
neutron tokyo
TEL&FAX 03-3402-3021
イベントURL
情報提供者/投稿者
開催場所
neutron tokyo
住所
〒107-0062 東京都
港区南青山2丁目17-14
最寄り駅
外苑前
電話番号
03-3402-3021

詳細

参加クリエイター

展覧会内容

今の時代に生きる若者として、震災のような大きな自然の力と 人間の生み出すネットワークそれぞれの影響は避けられない。
それぞれを悲観するよりもポジティブな力として捉えることにより、人間は少しづつ先に進むことが出来るのかもしれない。
象徴的な少女像をモチーフに、不安と混濁の只中にある世界の中から人間の可能性を見出そうとする大槻香奈の眼は、3.11後の日本に乳白色の景色を見ながら、新たな覚醒と共に深遠なる創造の域へと分け入って行く。
neutronの誇る、多数のファンと多大なる影響力を持つカリスマ作家が、待望の新作展を堂々開催!

[主催者コメント]
 4月1日(金)から三日間、東京の表参道「SPIRAL」にて開催されたアートフェア「行商」に、大槻香奈は出展していた。そもそも同時期に毎年恒例の「アートフェア東京」があるはずで、そのサテライトイベントとしての位置づけであった同企画は、しかしながら震災の発生以後の様々な影響により単独開催となり、震災後の初の大規模アートイベントとして諮らずしも注目を集めることとなる。主催者の意向で全売上の10%をチャリティーとする効果もあってか、心配された集客と売上は予想を超え、アートの下に集う人々の熱量と、これほどの有事に瀕しなお余震と停電の続く中での盛り上がりには、異様なものを感じたのを記憶している。きっと他の分野・業界ではほとんどのイベントが自粛になったであろう。それらのほとんどは現実的な開催の可否よりも、社会的な体面をもってして判断されていた。アートはそんな社会の中で明らかに異彩を放ち、大槻香奈の周囲の高揚はその会場の中でも一際宗教的であると感じられた。

 まさに、アートは(あるいは美術は)根源的に宗教とは切っても切れない縁を持ち続けている。近現代においてはその関わりは形式的なもの、精神性ばかりを打ち出す閉鎖的なもの、あるいはもちろん特定の宗教のために作られるものが「宗教的」とされ、人々に直接的に熱狂と陶酔を与えるものとは切り離されてきた。しかし音楽も舞台芸術も、そしてアートも、発端は集団陶酔であり、魂の救済と五穀豊穣を祈る祭事であり、動物としての人間の本能に直接的に働きかける強烈な刺激であったはずである。そういう意味ではまさに、大槻香奈の作品には本来的・宗教的な力が多分に宿っているのは動かし難い事実である。

 大槻香奈を見ていると、たった数年の間に私が予想した以上にシャーマンとしての力を身に着け、社会への影響力を膨らましているのを肌で感じる。誤解の無い様に言い添えるが、決して呪術をやっている訳でも、秘密結社を結成している訳でもない。彼女はただひたすらに絵を描いているだけである。だがその一方では、いわゆる「ソーシャルネットワーク」と呼ばれるインターネットを媒介としたコミュニケーションツール・システムを積極的に活用し、自身の作品表現やメッセージを不特定多数の人々に向けて発し続け、その反響は同世代の作家の中でも群を抜く大きさである。そしてその両者は多くの若き作家達にとっては無視出来ない関係にあり、上手く活用すれば雪だるま式に自分の周囲が形成されていくが、そうならなければ全く機能せず自分の存在と情報は社会と切り離されてしまう(かのように切迫して感じられる)。

 ニュースやメディアで「今時の」と形容されるそれらソーシャルネットワーク(SNS)と、いつの時代も流行と社会現象の寵児で有り続ける「女子高生」。この二つを巧みに取り入れているから大槻香奈は売れるのだ、という見方は、全く正しく無い。

 私の知る限り、この早熟で才覚溢れる作家はまだ本当の可能性の、ほんの一端しか示していない。大槻香奈は商業イラストレーションの分野でまず花開いたが、そのスタートラインにおいては「絵はうまいけどオリジナリティーの無い人だなあ」という印象しか持てなかった。しかし卓越した技術と社会的考察は次第に大槻香奈本来の目指す方向性を見出させ、自らを投影させたばかりかあらゆる生命の母性を司る化身(自然現象=自然神としての女子高生)、すなわち現在の少女像を生み出した。大槻香奈が数年前にイラストレーションから完全に離れたアートワーク(美術作品)を作りたいと私に言った時、彼女は既に自分の生み出すものがいかに社会的に重要で見逃せず、あるいは見過ごしてはならないものであるかを知っていたのだろう。その予感はやがて今に至るまでの短い間に「覚醒」へと変わり、絵画としての作品の成長は目を見はるものがある。そして何より、この揺れ動く社会に向けるまっすぐで力強い眼がある。

 これほど若くて、そして弱さの中に強固な意思を秘めた作家は、描かれる少女の母でもある。だがそれぞれはまだ幼く、脆くもある。そのアンバランスが人々を熱狂させ、執着させる。古い価値観が崩れ落ちた先に見える「乳白の街」から、今まさにモンスターが産声を上げる。

                                                  gallery neutron 代表 石橋圭吾

「乳白の街」

 3.11 以降、答えを人に頼る事はそれまでよりも難しくなったと感じている。 それは、様々な自然現象において「私はどう学ぶか」という事をいちばんに問われているという事でもある。 いつでも自然現象の上に社会現象がある。自然現象によって失ってしまったものを取り戻す為に、また、そこから前進していく為に、私たちは自身の手によって社会を創造し直していく必要がある。
個展を開催するにあたり、最初に考えたことはそれだった。
 絵画を受け身で描くべきではない、自分から積極的に創造し発信していかなければという想いから、今回の制作ははじまった。
 「何故少女を描くのか?」という事については私の公式Web のプロフィールを参照していただくとして、以下、今回の個展タイトルとテーマに辿り着いたキーワードについて書きたい。

 私が今回個展をするにあたって一番に頭を悩ませていたのが、私は何に希望を見出して絵を描くかという事であった。 答えの出せなかったある時、ぼんやりと「乳白ガラス」から差し込む白い光から、乳白色に染まる街を思い浮かべた。
 「乳白ガラス」とは、ガラス中に屈折率の異なる結晶微粒子を懸濁させて不透明にしたもので、例えばこれを窓ガラスとして部屋に設置すると、 外からの風景の揺らぎに関わらず、光そのものだけを均一に部屋の中に拡散する事が出来るというものである。
私はなんとなく、理想的な希望のイメージをそこに重ね合わせて見ていた。それは、オゾン層や大気・雲を介すことで太陽の光が「皆を(私達を)等しく照らしてくれる」ような現象に近いと感じたからだ。
 しかし、乳白ガラスは自然物ではない。自分たちが創造し、選択をしてきたことで、人はそのやわらかな光を手に入れる事が出来た。 つまり希望とは「見出すものではなく創りだすものである」という捉え方で、そういった思いで作品制作に向かわねばと心を新たにした。
 3.11 の震災が起きた時、電話やメールがつながらない中で、ソーシャルネットが世の中をつないでいた。TV局はUSTなどネットのツールで情報を公開し、人々も各種SNS を通じて情報を共有し合った。 太陽の光のような自然現象的なものではなく、それが人々の創りだした乳白の世界のように感じた。 白というのは私にとって魂を連想させる色だ。形のない確かなものが混ざり合っているイメージ。私はそこから「乳海攪拌(にゅうかいかくはん)」というヒンドゥー教の天地創造神話を連想した。
 こうして「乳白ガラス」から「ソーシャルネット」を連想し「乳海攪拌」へとたどり着いた。 ここで少し、その神話の大まかなストーリーを紹介したい。

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阿修羅(アシュラ)が天に侵攻し、神々の世は脅威にさらされた。
それを防ぐ為に、力を手に入れる必要のあるビシュヌ神は、不老不死の霊薬” アムリタ” をつくろうとした。
しかしアムリタは神々だけではつくれず、半分渡す事を約束に阿修羅に手伝わせた。こうして神々と阿修羅の共同作業で1000年をかけ、アムリタを創る事となった。
「乳海攪拌(にゅうかいかくはん)」というアムリタの製作工程で起こる振動と熱や火と猛毒により、世界は汚染され山の生き物は焼かれ海におちていった。
海中の生き物も多くが死に絶えた。そして、ビシュヌ神が海に投げ入れた種子や植物、海に落ちた生き物などの全てが混ぜ合わされ、紆余曲折を経て海は乳白色になり、あらゆるものが生まれていった。
様々な神や女神が次々に乳海の中から現れ、最後に天界の医師ダスヴァンタリがアムリタの入った壺を持って現れた。
その後、アムリタの奪い合いとなり神々と阿修羅の戦いがまた始まる。
最終的にアムリタを飲み不死となった神々が勝利をおさめ、アムリタを安全な貯蔵庫に移した。 阿修羅は神々に焼き尽くされたという。
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 不老不死の霊薬であるアムリタの製作工程の事を「乳海攪拌(にゅうかいかくはん)」という。 ソーシャルネットから乳海攪拌を連想したのは、ただ単に「ソーシャルネット=乳白の世界=乳海撹拌のあらゆる生と死が混ざり合っているイメージ。」という抽象的なものに過ぎない。また「3.11」での、震災ですべてが飲み込まれていくニュース映像での記憶と、乳海攪拌のイメージがリンクした部分もあるのかもしれない。 だが私は、その神話と、私たちの生きる現代にすごく近い「何か」を感じた。
 その「何か」とは、私は神話の中に潜む「希望の中にある不条理」ではないかと感じた。 核兵器を含む軍事力によって、世の中の拮抗が保たれているという事。食肉を確保する為に、家畜という制度で多くの生命が人工的に奪われている事。 その他、私たちが豊かに生きる為に必要な” アムリタ” の為に犠牲になっているあらゆる事。 乳海撹拌の話の中では、アムリタを出現させるためにたくさん滅びゆくものがあった。半分渡すという阿修羅との約束も果たされぬままだ。
 世の中の為にと人々が団結し大きな力を手に入れ、しかし、それによって新たな欲や確執が生まれ争いを生み続ける。人類はずっと、同じ事を繰り返している。それは本能的に、本質的に変わらないものだと思う。 その中で、人々は人々をつなぐ手段としてソーシャルネットを生み出した。あらゆる情報が共有され、見えなかったものが見え、伝えたい事を伝えられる時代になってきた。
それは1 つの希望だと思う。
 人々が創りだしたソーシャルネットという希望。くりかえされる新陳代謝の中、自然現象として社会現象が成り立っている以上、その希望もいつか崩壊する日が来るかもしれない。 その時がきても、私たちはきっと「それでも」希望を持ち、信じ、思考し、体験し続ける事しかできない。 私が絵を描くとき、人が「それでも」希望を持ち続ける事を恐れない心を思い出すような絵画であって欲しいと願っている。

 私は今まで、「世の中に起こる様々な事象を見つめ、それらを心に抱く存在」そんな「概念としての母」を、絵の中の少女を通じて描こうとしてきた。3.11 の震災や、その中でのソーシャルネットという希望。そしていつかまた起こるであろう希望の崩壊。
いつ何が起ころうと、母だけは物事をまっすぐ見つめ、それらを抱え、見守っていてくれる。今回改めて、そんな概念としての母を絵に込めたいと強く感じた。また、どんな状況にあろうとも、いつかの「死」まで我々は「今の世界を(存分に)生きる」事をきっと許されているという事も。

2011.08 大槻香奈

関連イベント

初日(10/12・水)の18:00 - 20:30に、会場で作家を交えてのオープニングパーティー開催(無料)

3F mini galleryでは常設展を開催致します。

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