開催時間 |
11時00分 - 18時00分
金曜日のみ20時00分まで |
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休み |
日・月・祝
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入場料 |
無料 |
作品の販売有無 |
販売有
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この情報のお問合せ |
児玉画廊天王洲
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情報提供者/投稿者 |
住所 |
〒140-0002 東京都
品川区東品川1-33-10 TERRADA Art Complex 3F |
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最寄り駅 | 天王洲アイル |
電話番号 | 03-6433-1563 |
ignore your perspective52 「思考のリアル / Speculation ⇄ Real」によせて
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技術革新によって途絶えてしまう「技術」は数多い。GPSが発達した現代において、星や波を読んで夜を航海する技術は廃れる。アジアに存在する実に多様な炊き方や蒸し方が存在する米の加熱方法は、「家電」たる炊飯器の普及によって急速に失われてきているらしい。絵画が写真術の誕生を契機として「絶滅」しなかったのは、人間の根源的な部分に制作や鑑賞の快楽がビルトインされているからだったのだろう。その快楽は何より「現実を捉え直す」契機であることから来ている。絵画の根源的な現実認識の作法は「なぞる」ことだ。本展で紹介する作家たちから見えてくるのは、(若い)作家たちが、いま、どのように各々の方法によって、いまの現実をなぞろうとしているのかということだろう。
石場文子は、現実にはこの世に存在していない「輪郭線」を写真の中で実現させてしまう作品を制作する。日本画、そして版画という出自をもつ石場にとっては、「写真」という自動的な光学装置と、人間の認知のシステムに寄り添う「絵画」という存在の間にある齟齬と、それぞれを鑑賞する視覚モードの切り替えの際に訪れる「認知が揺らぐ」感覚が、石場作品の狙いとするところだろう。
大谷透は、紙やすりや石膏ボードの裏といった部材や、パッケージを色鉛筆で塗りつぶし、図像を生み出していく作家だ。大谷は、普通の鑑賞者では出会うことのない、「制作するための道具」の裏側に可愛らしく描かれ、反復するモチーフに目を向ける。「制作への自己言及」は近代芸術の基本的な作法であるが、大谷は制作のそばに密やかに佇む可愛らしさにこそ注目しているかのようだ。大谷はその「可愛らしい」モチーフの周辺をこそ「なぞる」ことで浮かび上がらせている。
貴志真生也もまた、垂木や養生テープ、石膏といった素材をそのままに用いるが、それは表現主義的な作者の生々しい心情を伝達するメディウムとしてではなく、デオドラントされ、清潔感をもったままのそっけない情感を伝える。そのそっけなさの一方でしかし巨大なインスタレーションは、彫刻性が成立するかしないかの最低限度を確かめているようでもある。
木村翔馬はVRと並行して実際の画布にもペインティングを行う。複数のメディアを往還することは、それぞれのメディアが持つ特性や限界をあらわにするための有効な方策であるが、木村はVRという仮想的な、新しい空間での新しい身体性をもって、絵画を検討しようとしている。木村の中では、かすれるマーカーの線と、VR空間の線の2つの線の間に立ち現れてくる第三項こそが、絵画の可能性なのであろう。
野島健一は、美術史において記述されてきた様式の変遷を、進歩史観的な見方や弁証法的な見方としてではなく、「病理的」な次元へと読み替えてみせる。ここで発生しているのは単なるシミュレーション(なぞる行為)ではなく、角度を変えたなぞり直しなのである。考えてみれば、作品が時代を超えて命を持つということは、この角度を変えたなぞり直しを幾度も許容するからにほかならない。
松下和暉は、制作のモチベーションにアナグラムを導入する。言語的な操作は、急進派にとっては芸術を網膜的なものから引き剥がすための操作であったが、絵画が人間の認知の総体へと働きかける総合的なものであるならば、絵画をより豊かに使うためにもまた使用できるはずだろう。常に画家たちが絵画を手癖やマンネリズムから救うために虚心坦懐にモチーフを再び見つめるのと同様に、言語が持つ飛躍もまた、作家の手に新しい線を生み出させる動機となるのだ。
絵画と彫刻の起源神話が、影をなぞることであったように、芸術の仕事は現実をもう一度「なぞり直す」ことだ。しかし我々が手にしているのはギリシャ人のランプだけでない。現代の作家たちが、それぞれの仕方でなぞり直す行為の中で、今の時代はもう一度捉え直されていくはずだ。
出展作家:石場文子 / 大谷 透 / 貴志真生也 / 木村翔馬 / 野島健一 / 松下和暉