イグノア・ユア・パースペクティブ50「Shapeshifter」

イグノア・ユア・パースペクティブ50「Shapeshifter」
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    会 期
    20190824日 -  20190914
    開催時間
    11時00分 - 18時00分
    金曜日のみ20時00分まで
    休み
    日・月・祝
    入場料
    無料
    作品の販売有無
    販売有
    この情報のお問合せ
    児玉画廊天王洲
    情報提供者/投稿者
    開催場所
    児玉画廊 | 天王洲
    住所
    〒140-0002 東京都
    品川区東品川1-33-10 TERRADA Art Complex 3F
    最寄り駅
    天王洲アイル
    電話番号
    03-6433-1563

    詳細

    展覧会内容

     児玉画廊|天王洲では8月24日(土)より9月14日(土)まで、ignore your perspective 50「Shapeshifter」を下記の通り開催する運びとなりました。本展は、石塚嘉宏、村田啓の二名による構成となります。石塚は彫刻/インスタレーションのアプローチ、村田は映像/写真、とメディアも手法も異なりますが、作品の媒介としての捉え方に近似するものがあります。石塚はただひたすらそこに「在る」ものとして、村田は「在る」と「無い」を併存させるものとして、それぞれの作品が示し出すものを信じて制作しています。

    石塚嘉宏 (1990年生、初紹介)
    石塚は、対象となる物体と、そこに加えられる「行為」、その双方の関係性を通して現れてくるもの、それを知覚すること、に主眼を置いた制作をしています。石塚は作品に対して何か特定の意味を表象させようとはせず、むしろ意味やさまざまな属性をオブジェクトから剥奪し、単純な「行為」とものの「形態」だけを取り残すように、置いてくるのです。地面に突き刺さっただけのシャベル、磁力で中空に緊迫状態で保持されたワイヤーなどです。例えば、"吊る"という「行為」に対して用いられるエネルギーは、重力、磁力、張力など、物体をその場に保持するための力ですが、それそのものは目に見えることはなく、単純にそのオブジェクトが吊られた状態に保持されていることから、その力の存在が逆算的に示されます。「行為」の痕跡が作品に残されることを「指向性である」と石塚は述べますが、オブジェクトに対して加えられたエネルギーは単純に作用すればするほどオブジェクトと一体化し、オブジェクトに対して非常にシンプルな「指向性」つまりは個別の特性を付与します。「形態」は物体であれば第一に持っている、あらかじめ付与されたものです。人が何かを認識する際に、最初に知覚するものが「形態」である、と石塚は考えています。よって「表象」することを避けようとするならば、オブジェクトの「形態」を他の属性から出来うる限り切り離し、過度に作り込まれた演出は避けなければならず、極力そのもの本来の「在る」状態に近接する必要があります。そのためには単純な「行為」を最低限必要とします。
    今回の展覧会では木と金属がたた束ねられて立っている、その様子だけを見せる作品を展示します。素材となる木も金属も特別な加工はなく、ただの丸い棒であります。しかし、それらを束ねる、という単純な「行為」が加えられることによって初めてそれはオブジェクトとして文字どおり自立し、空間に存在を示します。木の棒でもなければ、金属の棒でもなく、木と金属の棒の束、という「形態」をかろうじて保持しながら、です。意味を「表象しないこと」によって逆説的に現れてくるもの、ただ「在る」ものとしてそこに示されたものを鑑賞者がいかに知覚するか、その端的な問いを投げかけます。

    村田 啓 (1990年生)
    村田はこれまで映像作品を主に制作、児玉画廊では2016年のグループショー ignore your perspective 33「人見ヶ浦より」以来、2度目の紹介となります。村田の映像作品は、メタファーが多分に織り込まれたシーンがカットアップ的につなぎ合わされ、総体としてのストーリーは曖昧なままであってもアレゴリーが形成されていきます。「イメージのささくれ」と作家が表現するように、映像の断片が記憶に引っかかってくるのです。村田の映像作品はおよそ散文的ではなく、「イメージのささくれ」的バラバラの断章が韻律で編まれていくようなものです。連続性のない積層であり、解体されたストーリーとイメージの再編による叙情的な映像詩であるとも言えます。
    今回の展覧会では、村田が初めて公にする写真作品を発表します。ここでも映像作品と同様に、イメージの解体が行われています。被写体となるのは「鏡の破片群に映り込んだ人物像」、それ自体に特筆すべき技術も無ければ、新たな発見があるものではありません。しかしながら、このさして複雑でもない手法によって、被写体となる人物はまず鏡像という光の現象にその身を移し、鏡の破片と共にまとまりとしての身体は万華鏡的に分断され、結果として現実と虚像の美しい乖離・癒合の現れとして提示されます。鏡を通すことで、本体はそこにはないが、ただ触れられもせぬ反響としてそこにある、まるで蜃気楼のごとき被写体(の鏡像)を砕いて揺らめかせ、「在る」と「無い」との境目を更にぐらつかせた上で、その曖昧な「在る」と「無い」とを同時に写真として収めているのです。バルトが言うところの「それは=かつて=あった」写真の本質、レンズの前に厳然としてあった筈の過去の現実の行方を眩ませる作品です。

    「Shapeshifter」、姿を変える者。古来、神話や寓話において変身とは、神や怪物が人の世に潜むために、あるいはその人知を超えた存在と力の象徴としてふるわれ、人々に畏れられてきました。もっとも著名なところではオウィディウスの「変身物語」にある様々な逸話、それらは星の数ほどの芸術の題材として後世に残っています。ティツィアーノ、ルーベンス、ピカソ、ジョアン・ミロ、枚挙に暇はありません。日本でも神話、雨月物語、山月記から特撮やアニメまで、あらゆるものがあらゆるものへ姿を変えます。時代を問わず人の心はかくも変身に魅了され、想像力を豊かにします。日本語では本来生きている人のことを指した「現し身」から「空蝉」とも「移せ身」とも表現が転じていきますが、仏教的な生命観の儚さに加えてそこには、変化、転身、流転のニュアンスを含みます。空になった蝉の外皮は薄く脆く、数日の命と引き換えに得た暴力的なまでの蝉噪との対比を想起させると同時に、それは地下の長きにわたる無声からの劇的な変身の証左でもあります。なべて美術も同様に、イメージを転変させ、翻訳し、可視化する、薄く脆くしかし劇物たる媒介として存在しているのです。姿を変えて立ち現れる、その内に秘めたるものに畏敬を。つきましては、本状をご覧の上展覧会をご高覧賜りますよう、何卒宜しくお願い申し上げます。

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