洪辰煊・尹勝俊・玄夕慧・朱龍聲 4人展 「影絵遊び」

洪辰煊・尹勝俊・玄夕慧・朱龍聲 4人展 「影絵遊び」
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会 期
20190402日 -  20190414
開催時間
12時00分 - 19時00分
休み
入場料
無料
作品の販売有無
販売有
この情報のお問合せ
TOTEM POLE PHOTO GALLERY
情報提供者/投稿者
開催場所
TOTEM POLE PHOTO GALLERY
住所
〒160-0004  東京都
新宿区四谷四丁目22 第二富士川ビル1F
最寄り駅
四谷三丁目
電話番号
03-3341-9341

詳細

展覧会内容

1986年1月28日米国フロリダ州ケネディ宇宙センターからチャレンジャー号が発射73秒後で爆発し搭乗していた7人全員が死亡した。2001年9月11日にはニューヨークの世界貿易センターが自爆テロにより一瞬にして崩れ落ち、この過程で2,996人が死亡した。2011年3月11日、日本の三陸沿岸の太平洋沖で大地震が発生し、その地震が引き起こした津波で15,897人が死亡した。福島第一原子力発電所の事故による被害はまだ見はからうことすらできてない。これらの惨事はすべて生中継で世界中に配信され、誰もが信じて疑うことのない未来がしばらく留保された。そして2014年4月16日、韓国、珍島(チンド)沖で世越号(セウォル号)が沈没した。沈みゆく船を前にして政府は救助できず、もしくはしようとしなかった。そのうちに私たちはTVを通じて304人の死を生中継で見守らざるを得なかった。それから五年の歳月が過ぎ去ったが、無力と不能の感覚はすべての人に身に付くことになってしまった。死を見つめる共通の経験は一つの世界を終了させ、新しい世界を切り開いた。その新しい世界が誰も夢を見ることのない未来であったとしても。

 四つの写真の塊が置かれている。死を見つめる誰かの視線である。死は自然なことだが、死を見つめる行為はいつも不自然である。その不自然さを眺める視線はますます混乱する。死はただ生きている者たちの為のもの、その前で私たちができる唯一の行為である眺めるということは死そのものでもある。写真はすべての事の存在を暗示しながら不在をも証明する。そうやって写真は死を生産する。そのため死を記録する行為は最も写真的な行為ともなる。尹勝俊(ユン・スンジュン)、朱龍聲(チュ・ヨンソン)、玄夕慧(ヒョン・ダヘ)、洪辰煊(ホン・ジンフォン)の四人の作家の視線に追っていきながら四つの死をゆっくり眺めようとする。そして私たちが期待している未来と、私たちが作ってきた過去との狭間を、写真の行間から緩やかなリンクを辿り汲み取ろうとする。

 洪辰煊(ホン・ジンフォン)の写真からはじめよう。何かを明確に示してない平らでのっぺりとした風景が繰り返される。どこにも目のやり場が見つからず、視線は四角い画面の周辺をぐるぐる回る。主人公が消えみすぼらしい助演俳優だけが残されてしまったシーンは、虚しい不在の感覚を着々と積み上げていく。この写真は世越号(セウォル号)の惨事で最も多くの犠牲者が出た安山(アンサン)の檀園(タヌォン)高等学校の生徒たちが向かっていた済州島の風景だ。修学旅行のために済州島へ向かっていた檀園高等学校の二年生の生徒と教師を合わせた262人が死亡・行方不明になった。作家は修学旅行の日程通り済州島を徘徊しながら、檀園高等学校の誰もが辿り着くことのできなかった風景を記録する。ある死は当為の行方不明である。在るべきものが無いという感覚はきっと歳月号事件以降からの感覚である。繰り返される真空の写真は共通の経験の上での巨大な死へと続く。

 洪辰煊(ホン・ジンフォン)の写真が「無」を積極的に刻印させようとする視線なら、尹勝俊(ユン・スンジュン)は徹底的に無責任な観察者の位置に立っている。韓国の国道沿いで難なく見付けることのできる廃業したサービスエリアを撮った連作写真で、作家の視線は無関心な旅行者の態度をとっている。サービスエリアは写真の画面上に危うく配置され、正面性は徹底的に排除されてる。まるで車に乗って通り過ぎながら見るサービスエリアの様子を連想させる。しかし「休憩」というロマンチックな言葉とは似つかわしくなく、すでにその建築物は自らの用途を失い、建築家でもある作家の視線からはその最後を淡々と受け入れる諦めさえ読み取れる。高速道路と自動車専用道路の登場はすべてを加速させ、細分化された節を巨大に接合した。この建築的死の前で作家はつとめて傍観者の立場に引き下がり、小ささや穏やかな変化の消滅を推進するこの時代の視線を占有する。写真が作り出した速度猶予の風景と無責任な観照的視線は、ある死に対した小さな哀悼として作用する。

 玄夕慧(ヒョン・ダヘ)の視線は尹勝俊(ユン・スンジュン)とはまた異なる観照的な立場から死を見つめる。四年前に認知症により養護老人ホームに入院した祖母の姿を淡々と記録した写真は、まだ到来していないが必ず到来するであろう家族の死の前に立っている。認知症は記憶の死である。それは歴史の死であり関係の死である。しかし作家はその死をひたすら悲しむより、そこから再び始まる人生を肯定する。被写体全てが一様に些細なものであり、古ぼけていたり枯れ果てていたりする。しかし依然として燦爛とし、だからこそより一層平和的でもある。写真は祖母の日常のように静かで、記憶の重量のように軽い。作家の視線は祖母の人生に介入するよりも、やるせない傍観を続けることを選んでいる。それはすでに消え去ってしまった歴史への尊重であり、もう定着することのできない記憶への慰めのようだ。しかし対象との距離を断つことはできず、祖母の周りを漂よってはまた佇む。作家にできる唯一のことといえば「分け前は全てあなたのものなので私は時々悲しくなることもある」と低く口ずさむのみだ。

 朱龍聲(チュ・ヨンソン)は死との距離をさらに劇的に拡張する。ひとめ見ても遺影に見える写真が額縁に入られ、黄色いひもで縛られたまま黒い床に置かれている。この写真の主は韓国の民主主義のための闘争に参加し、亡くなった烈士たちである。そしてこの写真につけられてる「民族民主烈士と犠牲者のための追悼祭」というテキストが追悼祭を終え、彼らの遺影を整理している状況であることが窺い知れる。しかし作家の視線は烈士の死に対する崇高を一気に取り除く。そして民主化闘争という巨大な歴史を一つの物質で置換する。この過程で多くの象徴が積み重なり歪む。まず作家は一時代の闘争が時間が経つにつれ追悼という形だけの儀式へ変質していく過程を暴露する。いつも現在形でしかいられない民主主義という可能態を過去化させ、闘争の終了を宣言する祭儀的な形式に作家は尋ねる。それと同時に民主化世代と呼ばれる一つの時代が終了したことを宣言する。民主化闘争の象徴的人物が大統領になり政府の各要職を占めたが、彼らは今の若い世代に新自由主義という無限の競争システムを強いて非正規雇用という怪物を与えた。その若い世代の一人である作家に彼らが言う民主化の時代はまた一つ克服の対象となった。歴史的死-イメージとの極端な距離は対象に対して肯定と否定を同時に表す逆説的な状況を作り出す。

 朱龍聲(チュ・ヨンソン)の写真にあらわれるもう一つの死は写真の死である。遺影写真は誰かの死を宣言し追悼祭の終了とともに自らの役割を終えた。安価な黄色いヒモは皮肉にも烈士たちの目を隠し口を防いだ。過去のある時空間を示した顔はこれ以上何の役割も果たすことのできない状況に偶然置かれた。その状況を作家は再び写真に撮ってその過程さえ剥製化させる。ネストされた写真の死である。背景の星のように輝く発泡スチロールの一部分は祭壇としての用途を尽くしてこの死の連鎖をさらに増幅させる。この輝く光の跡は尹勝俊(ユン・スンジュン)の冬山に似てる。尹勝俊の写真に現れたサービスエリアの風景はすべて枯れ果てた冬の山を背にしてる。じきに雪が溶けて春が来ることを誰もが疑わずにいるように、写真の中のサービスエリアの運命は明らかである。洪辰煊(ホン・ジンフォン)の写真で繰り返し現れる曇り空も同じ関係に置かれる。いつも混み合って華やかであった済州島の観光地はこの空の下に閉じ込められることにより一定のトーンを持つようになり、これは一つの兆候として動作することになる。世越号(セウォル号)事件以来、私たちが取り返すことのできない挫折したいくつかの感覚のように。

 玄夕慧(ヒョン・ダヘ)の光はさらに特異である。ほとんどの写真のなかで被写体は非常に強い光の下にあるが、一枚の写真を除いた全ての写真にはあるべきはずの影が存在しない。その光源は時には自然光であり時には人工光であるがそれとは関係なく写真はすべて明暗なく滑る。過去は記憶の中だけでいれられ続けるものであるならば、現在のみが存在する祖母の姿は影のない写真の中で一層目立つ。そして唯一影が垂れ下がっているのが祖母の過去の証明写真という点でますます意味は深まる。玄夕慧の写真によく登場する艶やかな花々と尹勝俊(ユン・スンジュン)の写真で登場する枯れ草は妙な同質感を生み出す。一時代のファンタジーを代弁するサービスエリアの屋号の看板は烈士の遺影の中の名前と微かに重なる。遺影写真の中に時折登場する素っ気ないスニーカーは尹勝俊の観照的視線と再び出会い、世界との最後の繋がりであるかもしれない祖母の赤い携帯電話は、済州に辿り着くことのできなかった生徒たちの最期と重なる。

 ここに四つの写真の塊が置かれている。まるで墓のように。実際墓は死とは関係ないけど私たちは墓を立てて死を可視化する。死を視覚化するひどい癖はいつから始まったのだろうか。交錯するこの写真たちもそれぞれの方法である死を眺めさせようとする。五回目の四月が巡ってきた。時間の節に象徴を付けるこの行為に食傷気味ではあるが、それを代替する言葉が思い浮かばない。四月は死である。少なくとも私にはそうだ。星は死を迎える時に最も明るく輝いている。二つの月がのぼる日は一つの宇宙が消滅する。この残酷な真実は私たちの視線を死へと導く。死を見つめる行為はその大小を問わず別の世界への凝視だ。死は人生の影であり、写真の唯一の役割はその影を物理的に定着させることである。この無意味にも見える写真的行為を多元的に重ねながら、私たちに押し迫った死のシーンを反芻する。そして私たちが生き抜いてゆかなければならない、もう一つの暗い宇宙を思い浮かべてみる。
著:洪辰煊

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