大久保 薫 「平野」

大久保 薫 「平野」
    タグ
    • 印刷する
    • add calendar
    会 期
    20190126日 -  20190302
    開催時間
    11時00分 - 18時00分
    金曜日のみ20時00分まで
    休み
    日・月・祝
    入場料
    無料
    作品の販売有無
    販売有
    この情報のお問合せ
    児玉画廊天王洲
    情報提供者/投稿者
    開催場所
    児玉画廊 | 天王洲
    住所
    〒140-0002 東京都
    品川区東品川1-33-10 TERRADA Art Complex 3F
    最寄り駅
    天王洲アイル
    電話番号
    03-6433-1563

    詳細

    参加クリエイター

    展覧会内容

     児玉画廊|天王洲では1月26日(土)より3月2日(土)まで、大久保薫「平野」を下記の通り開催する運びとなりました。
     大久保は「肉体」をモチーフとした絵画を続けています。我々が人間である以上、逃れえぬ「肉体」は、美術においても他に代えがたい題材として表現され続けてきました。大久保にとって絵画とは「肉体」を表現することであり、大久保の中に湧き上がる美術表現の動機は常に「肉体」に依拠するものであります。初期作品に於いては、セルフポートレートを基にしたり、あえて身体的拘束/制限を課した状態で描くなど、直接的に自分の身体性を絵画に反映させる試みが見られました。次第に、作家である自分の姿を絵画の中から遠ざけ、より象徴的な意味での「肉体」を追求することへ関心が遷移します。例えば、一点の作品のために幾百もの試作を重ねることで「肉体」にまとわりつく情念、性、それらを振り落として純粋な「肉体」とは何かと自問し、かと思えば逆に、死や性や愛をその根底に置きながらそこから否応なく立ち現れる「肉体」の描出を試みるなど、今現在に至るまでさまざまな視点から「肉体」を描くという行為の本質は何か、という途方もないテーマに不断に挑み続けています。
     昨年の個展「温室」では、古い時代の宗教絵画や王侯貴族の肖像画に見られるような示威的なポージングや画面構成等を借用しながら、権力やエネルギー、高貴さ、肉感的魅力などのさまざまな「力」を「肉体」の象徴として扱う作品を発表しました。制作段階においては、150号などの大型サイズのキャンバスに習作を重ね、本作はより小さい画面へ描き写す、という一見奇妙とも思えるプロセスを経ています。その意図は、作家によれば「肉体」へ向けられる自らの情念や感情、それらはあまりに露骨過ぎるため、一度十分すぎるサイズで発散した上で、冷静かつ距離を保ちながら推敲するための行為である、と説明しています。一般的には逆で、強さや力を描出するならば、作品も自ずと大きくなり、行為としてもエモーショナルである方が合理的と思われるでしょう。しかし、大久保にとって作品そのもののサイズやボリュームは表層でしかなく、感情こそは不要、それらは「肉体」の本質ではないのです。多くの大久保の作品において、「肉体」は決して写実的に描かれているわけではなく、よりディテールを注視すれば筆触も無駄に力任せにしている訳ではないことに気づきます。確かに、大久保の一筆は高い技量に裏付けられた巧さを間違いなく感じさせ、形質を俄かに捉えた非常に端的なものです。かといって、力量や技術に頼った優等生的な描画は一切なく、こねくり回した溶岩のような下地の上に描かれていたり、かと思えば一方では素地が見えるほどの極端に薄い層のみで描き切られたものもあります。時には支持体そのものがキャンバス地ではなくカーペットや化学繊維のような特殊な素材を用いることもあります。それらに由来する一種異様なテクスチャーが奇跡的に絵画内容に符合し、画面から未だ経験したこともないような「肉体」の強さを放っているのです。こうした大久保のアプローチは絵画における人体の捉え方以上に、どこか彫刻的な感性への近接を感じさせます。その造形的な画面が、物質的な量塊を感じさせるからだけではありません。かのミケランジェロが、余計なものを取り除くことにより彫像は完成されていく、と嘯いたように、削り落とし、篩にかけて、大久保は真に「肉体」を描出するために何を、いかに、取り除いていくかを模索しているように思えます。
     今回の個展でも、大画面の習作から凝縮した本作へと描き直す、ということを続けながら、「平野(Plain)」という示唆的なタイトルを掲げています。大きな習作では、描き重ね、塗りつぶし、かなり激しく制作にあたります。必然的に画面は分厚く、重たく、隆起を形成していきます。一方、本作では習作におけるその描き重ねを捨て去った後の、粋を集めて臨むため画面は幾分かフラットに仕上がります(あくまで大久保の作品内の相対的な比較においてであり、他作家の絵画と比較してフラットであるか否かではない)。習作のように、作り込んだ画面の強さとはおそらく一般的な共通認識であって、分かりやすく鑑賞者にそのエネルギーを見せつけることができるはずなのです。しかし、大久保は躊躇なくそれを捨てます。澱を除いた上澄みのような絵画、それを指して、明瞭かつ、シンプルな、平らな絵画である、と言っているのです。転じて、真の「肉体」表現へと肉薄するものである、という意を、この牧歌的言葉の言外に仄めかしているのです。
     つきましては、本状をご覧の上展覧会をご高覧賜りますよう、何卒宜しくお願い申し上げます。

    平均:0.0 
    レビューした人:0 人

    近くの展覧会

    人気の展覧会

    <<        >>

    クリップした展覧会はありません。