開催時間 |
11時00分 - 19時00分
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休み |
休廊日:月曜
開廊時間:最終日の展示は18:00までとさせて頂きます |
この情報のお問合せ |
neutron tokyo
TEL&FAX 03-3402-3021 |
情報提供者/投稿者 |
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住所 |
〒107-0062 東京都
港区南青山2丁目17-14 |
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最寄り駅 | 外苑前 |
電話番号 | 03-3402-3021 |
実に5年ぶりのneutron登場で、東京ギャラリー初個展の写真家。
淡い光の印象を掬い取る様に写された光景は、この世のものでありながら、彼岸の景色のようでもある。
人間の営みや自然の有り様、それら全ては光の在る中でこそ輝きを放つ。
写真だからこそ見せられる、優しさと静けさの中に浮かぶ至高の瞬間の数々。
[主催者コメント]
先日、あるお酒の席で日頃お世話になっている方とお話した際、ふと話題に上った写真と絵画の違いについて、非常に明確でシンプルな言葉を頂戴した。その方のお仕事は美術関係なのだが、個人的にも写真愛好家だと言う事で、私の「写真と絵画は成立のスピードの違いなのではないでしょうか(写真は瞬時に感光して成立するが、絵画は長い時間をかけて描かれる)」 との問いに対し彼は、「いや、詰まるところ写真は“ 光”が印画紙に定着することであって、それ以上のなにものでもない」「 それに対し絵画は物質であり、(あくまで人間が能動的に生み出す産物である...)」と答えた。
なるほど、そこまでシンプルに考えてしまえば迷うことも無い。少しは写真をかじった事のある私だが、どれだけ知識があろうと無かろうと、フィルムだろうがデジタルだろうが、写真は光が存在しなければ絶対に成立しないことは瞭然である。無論、絵画だって何だって、人間が知覚する光が存在しなければ作られることは無いだろうが、写真は一次的なもの(光との瞬時の関係)であり、絵画は二次的な産物であると考えることが出来る。
そんな話の流れの基になったのは、ここに紹介する石川文子という写真家の久しぶりの個展を開催するという事がきっかけであった。彼女は遡ること5年前、2006年当時にneutron(京都)での個展以後しばらくご無沙汰であったが、一度のスランプを経て再び目の前に表れた本人の印象も写真のそれも、以前と変わらず、むしろ芯の強さを増していたのを思い出す。そして今回は作家にとっても待望の東京でのギャラリー個展ということになり、新作を携えてやって来る。
石川文子のステートメントにも、偶然にも上述の某氏の意見と同様のことが書かれているのが興味深い。
もともと繊細な光の印象を留める写真家であるのだが、良くも悪くもコンセプト重視の現代美術において、「気になるものを撮ってます」というスタンスは評価の対象になりにくいのも事実である。だからといって、取って付けた様なコンセプトを書いてみても、やはり原始的な欲求に従って映される景色に対し言葉は後付けとなる。つまるところ石川が一時停滞した理由も、そうした「作品」としての成立の仕方をどこに求めるかという悩みにあったのだろう。次第に獲得したモチベーションは、「光を留める」ことに尽きると言う事であったのだから、まさにそれは写真の原点であり、絵画や他の制作メディアとの決定的な違いであり(動く映像は除く)、写真家が写真を撮る最初にして唯一の理由であったと言っても過言ではないだろう。
淡く霧がかった様な優しい景色は、この世のものでありながら、どこか彼岸のそれを連想させなくもない。
だがフィルムに映し込まれた光の粒子一粒一粒は間違いなく現実にそこに存在したものであり、カメラを構えた地点に集約された光の束である。まるで霞を掬うようなふんわりとした手つきを連想すれば、石川文子の写真が少し近くに感じられるだろう。田舎の夜空に浮かぶ満天の星空を見上げたとき、夏の水辺に蛍の灯を見つけたとき、人はそれに対し思わず手を差し伸ばして、何かを求めたくなる生き物である。
花火も夜景も名勝地の絶景も、あるいは身近な大切な人の姿形も、全ては光の成せる業である限り、石川文子に限らず人がカメラを構える理由は本能的に存在し続けるだろう。
私自身、カメラを携えていた時に一番好きだった季節が夏の終わりである。次第に澄んで行く空の上に、台風一過の晴れやかな青と白が織りなす光景は、思わず涙が浮かぶほどに愛おしく感じられたものだった。
石川文子の写真を見て、そんな事を思い出す。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
「僕には光が見えはじめている」
4年程前の夏の話になりますが、スランプの時期を経験しました。
撮る前に既に、自分の作品の完成のイメージが分かってしまい写欲が沸いてこないのです。
無理矢理気持ちを奮い立たせ、撮影をし、何本もフィルムを費やし現像をする。
それはそれで悪くないのですが、出来上がった作品を見ても喜びを感じられない。
撮ることが楽しくないのです。
分かりきった結末の映画を何回も見ているような空虚感がありました。
ちょうどその頃、頸椎のヘルニアを患い、一眼レフカメラを持てなくなった時期とも重なり
ますます撮ることから離れてしまうという悪循環でした。
秋口になり、身体の方がずいぶん回復してきましたのでふとカメラを持って外に出てみました。
公園、水辺、植物園、思うままに私の好きなところを歩きました。
光が柔らかくなったなぁ、緑がきれいだなぁと、ただ眺める。そしてシャッターを押す。
すごいものを撮ってやろう、というのではなく、ただ、そこに光があるだけで
それでいいという心境です。
花がある、そこに光が差している、
水辺に緑が映り込んでいる、部屋の午後の柔らかい光、ただそれを見つけて撮る。それだけです。
カメラを持っている、光に反応して撮る、それだけです。
スランプの時期を脱したのか、それは分かりません。
まだその中にいるような気持ちになる時もあります。
でも、この世に光があれば、もしかしたらまた何か撮ることができるかな、と
思えるようになりました。
私の写真を撮るという行動は、コンセプトはありません。
ただ、美しいと感じる景色や花、緑、そして光や水身体で感じて目に映してやりたい、
そして記録したい、願わくばフィルムに定着させたいという本能的な欲望に基づいた行動です。
私の光の記録です。
石川 文子
★初日(8/27・土)の18:00~20:30に、会場で作家を交えてのオープニングパーティー開催(無料)