開催時間 |
11時00分 - 18時00分
金曜日のみ20時00分まで |
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休み |
日・月・祝
※12月19日(水)はイベント開催のため休廊 |
入場料 |
無料 |
作品の販売有無 |
販売有
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この情報のお問合せ |
児玉画廊天王洲
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情報提供者/投稿者 |
住所 |
〒140-0002 東京都
品川区東品川1-33-10 TERRADA Art Complex 3F |
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最寄り駅 | 天王洲アイル |
電話番号 | 03-6433-1563 |
児玉画廊|天王洲では11月22日(木)より12月22日(土)まで、関口正浩「まばたきのかたち」を下記の通り開催する運びとなりました。
関口は、油彩で作った皮膜状の色彩面をキャンバスに貼付、定着させたもの、それを絵画と呼ぶ作品を制作し続けています。初個展「うまく見れない」(2009年、児玉画廊, 京都)以降一貫して描画、即ち絵筆によって描くという絵画の基本的行為を放棄し、色面を物質化させたとも言える絵具の「皮膜」を使って謂わばコラージュのようなアプローチから「oil on canvas」の新たな在り方を模索してきました。
油絵具は水分蒸発によってではなく、成分中の油が空気に触れて酸素を取り込みながら次第に固形化していく特徴を備えています。手で触れても表面上は乾いていながら内側にグミ状の柔らかい部分が残っている、いわゆる生乾きの状態というのは、空気によく触れている表層だけが膜状に硬化した段階です。ボンドやのりをプラスティックのプレートなどに塗布してから綺麗に剥がしとると薄膜を得られるように、関口はアトリエに広いシリコンボードを水平に用意し、塗り広げた油絵具を乾燥後に引き剥がすことで、素材となる色彩の「皮膜」を作っています。
関口の主な作品においては、コラージュや千切り絵、切り紙や折り紙のような手法、つまり絵具が「皮膜」となっているからこそ使える技術を援用しています。カラーフィールド・ペインティングやミロの切り絵、ディーベンコーンのコラージュ、クネーベルやマレーヴィチなど、一見するとオーソドックスな抽象絵画の文脈を引き継いだ作品のような素振りをしながら、その実、「皮膜」という全く異なるアプローチからそこへ到達してみせる、という難路を歩んできました。
ではなぜそうする必要があったかと言えば、関口にとって絵画とはモダニスムに立脚した絵画論のそれであり、かのグリーンバーグの論旨にもある通り、そこから後続する形で現在に至るまで綿々と続く「平面性の追求」としての絵画の在り方、それが依然として不完全であるという懐疑を抱いたことにあります。関口は絵画について、この「平面」という言葉をよく使います。ただし、それは大抵の場合無自覚に無視されている絵画のよりオルタナティブな可能性に対する反語として、あるいはより直接的な批判の文脈において、です。例えば、抽象絵画における様々な水平性と垂直性の議論、端的にはポロックを想起することでそのヒントが見えるかもしれません。キャンバスを床という水平面に置き、床に唾棄するがごとく絵具(吸い殻やゴミすらも)を縦横無尽に振り広げる作品を制作することで、「平面」を壁あるいはイーゼルから一旦引き摺り下ろし、その即物的なやり方で垂直:重力への隷属から解放してみせたのがポロックの偉業の一端であるでしょう。ポアリングした絵具を全方向無差別に水平キャンバスに受け止めさせることで、本来ならば液体=絵具はキャンバスの上方から下方へ流れ落ちていき、絵画はその物理現象に大なり小なり依存することを避けられないという無意識的に了解されていた前提を覆すことに成功した訳です。しかしながら、理論的にはポロックの示唆によって一縷の光を見たといえども、関口に言わせれば依然絵画は壁に掛けられねば鑑賞すら許されず、ましてキャンバスやフレームという支持体によらねば自立することすらままならない不完全な状態に留まっているのです。絵画の「平面性の追求」を信じ続けるならば、その拘束を解きさらなる解放へ導くべきであり、つまり、重力への対抗によって必要に迫られるフレーム構造と、壁面依存という宿命的なフォーマット、そこへ反旗を翻すことこそが、関口の絵画制作の重要なモチベーションとなっています。
「自分の制作において、絵具が薄膜として水平の台から引き剥がされたときに示されるのは、いわば無重力状態における絵画のあり方である。」* この関口の発言に見るように、「皮膜」化された色彩がヒラヒラ、クシャクシャと中空であるフォルムを作ったその瞬間に、関口の絵画は既に成立している、とも言えるのです。そこにキャンバスや壁面など純に絵画以外の要素は存在せず、その瞬間においては、絵画は真に自立しているのかもしれません。しかしながら、いかに「皮膜」という手段によって絵画が自立する可能性へ近づいたと言ってもその状態で留めおくことができない以上、来るべき宇宙時代を待たねば現時点においては「on canvas」という絵画の在り方からは残念ながら逃れられそうにありません。そうであったとしても、これまで「平面B」や「仮面」という自作への関口の表現からも読み取れるように、あくまで自身の作品は一時的にキャンバス上に「仮置き」されているのだ、という主張を繰り返し、抵抗を試みてきたのです。
今回の個展では、昨年の個展「Warped」の内容を引き継いだ作品を展開します。上述のように絵画が「皮膜」として提示されることに変わりはありません。しかし、そのプロセスに違いがあります。これまではシリコンボードに塗布した絵具を引き剥がす、という手法でしたが、「Warped」以降はキャンバスと同じ大きさのビニールシートを用意し、そこに絵具を塗り広げていきます。その際、ビニールシートは任意に折り畳まれたり、シワクチャに絞られたり、様々な折り目を付けられた状態で絵具が重ねられます。そして、一層絵具を重ねるその都度、折り目は一度開かれ、また新たに変えられていきます。この、折る、塗る、開く、折る、塗る、開く、、、を塗り残しがなくなるまで繰り返すことによって、次第にキャンバスと同じサイズの大きな一枚の「皮膜」を形成していきます。塗膜は折り目に従って厚みとテクスチャーを変えながら、まるで、ビニールのシワや折り目をそのまま写し取ったような、一見タイダイの染物、あるいは幾何学的抽象絵画のような様相を呈しています。そうして作った「皮膜」はこの時点ではまだヒラヒラとしたビニールシートに張り付いた状態です。これを、絵具の面をキャンバスに重ね合わせて固定し、しっかりと癒合するのを待ってからビニールシートのみを剥ぎ取ると、まるでシール転写のように「oil on canvas」の絵画が現れる、という仕組みです。これまでのコラージュ的な構成では、無数の襞や継接ぎの断層が強い視覚的な要素となって、描画ではない、ことの主張にも結びついていたのに対し、この新しいアプローチでは画面全面が一体化した一層の「皮膜」として示され、平滑に塗られた絵画、あるいはプリントのようにさえ見えます。しかしながら、これは、今までの関口作品と比較してみれば平滑であり絵画的である、という前置きが付き、よく見れば従来通りの襞やシワが随所に認められ、やはりこれは描画ではなく「皮膜」であるのだ、と明確に判断されます。「Warped」ではよりその効果を明示するために白と黒のモノトーンに徹していたため、折り目に由来する特徴が白と黒との鮮明なコントラストによって示されていましたが、今回は色彩を使うことによって、明度に加え、彩度、色あい、濃淡の要素が加わりより複雑化した画面が展開されます。
初個展の「うまく見れない」、そして、今回の「まばたきのかたち」という展覧会タイトルには、関口の視覚への信用と不信が現れています。「平面」とは何か、という観点から絵画に向き合うこと、それ自体が、まず「平面」をいかに知覚するかの問題を孕んでいるからです。絵画を「平面」として見るということに限定して言えば、絵画の中で日常的に行われているイリュージョンやレイヤーや、そういった厳密な意味での立体/平面の境界線を視覚情報のみによって判断することの困難さについて思考することは避けては通れません。困難さというより無意味さと言っても良いかもしれません。目に見えるものの不完全さはそのまま絵画の不完全さでもあります。絵画が「平面」であることの定義も不完全なまま放置されてきているということです。極論を言えば、関口が「皮膜」という手段、薄膜を引き剥がした瞬間の現象を捉えて絵画の自立を問うと言うならば、それは即ち、キャンバス上に固定された持続的な図像という意味での「平面」を放棄せねばならない可能性が示唆されるのです。関口の作品タイトルにもよく現れる「Flag」に倣うなら、確かに「平面」的に拡げられた旗は、広義に絵画であるかもしれません。しかし、関口の「Flag」は翻る旗の瞬間的造形を捉えて、これも「平面」である、そう知覚しさえすればひょっとして絵画ともなり得るではないかと嘯くにも等しい行いであるのです。まばたきほどの間に「見える」ものと「見えなかった」もの、と比喩的に関口は言いますが、そのどちらかと言えば「見えなかったもの」、つまり人間の知覚的にも、絵画の意味合い的にも、いまだ不完全で不確定な状態にある「平面」を「仮置き」する自らの行いを、差し当たって絵画と仮称するのです。
つきましては、本状をご覧の上展覧会をご高覧賜りますよう、何卒宜しくお願い申し上げます。