開催時間 |
10時00分 - 20時00分
火17時00分まで 最終入館は閉館の30分前まで |
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休み |
1月29日(火)、2月19日(火)、2月20日(水)、3月5日(火)
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入場料 |
有料 一般1,600円(1,400円)、高大生1,300円(1,100円)、小中学生600円(500円) ※( )内は前売および15名以上の団体料金(添乗員は1名まで無料) ※障がい者手帳をお持ちの方と介助者(1名まで)は当日料金の半額 ※前売券の販売は、11月27日(火)から2019年1月16日(水)まで |
作品の販売有無 |
展示のみ
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この情報のお問合せ |
03-5777-8600(ハローダイヤル)
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イベントURL | |
情報提供者/投稿者 |
住所 |
〒106-6150 東京都
港区六本木6-10-1 六本木ヒルズ 森タワー52F |
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最寄り駅 | 六本木 |
電話番号 | 03-6406-6652(10:00〜20:00 |
~果てしない北斎ワールドにようこそ~
北斎の代表作としては、“Great Wave”と称されて世界的に名高い「神奈川沖浪裏」を含む「冨嶽三十六景」シリーズ、19世紀のヨーロッパにおけるジャポニスムの流行の契機となった『北斎漫画』などが一般的に知られていますが、これらは約70年に及ぶ北斎の画業のほんの一端にすぎません。
本展では、北斎の絵師人生を作風の変遷と主に用いた画号によって6期に分けて紹介します。勝川派の絵師として活動した春朗期(20〜35歳頃)、勝川派を離れて肉筆画や狂歌絵本の挿絵といった新たな分野に意欲的に取り組んだ宗理期(36〜46歳頃)、読本の挿絵に傾注した葛飾北斎期(46〜50歳頃)、多彩な絵手本を手掛けた戴斗期(51〜60歳頃)、錦絵の
みどころ①待望の大規模北斎展
20歳のデビュー作から90歳の絶筆まで、本展に出品される作品数は約480件(会期中展示替えあり)。十数年ぶりに東京で開催される、大規模かつ網羅的な北斎展となります。国内外から集められた名品・貴重品によって、北斎の全貌を知ることのできる待望の機会です。
みどころ②初公開作品が続々登場!
多数の初公開作品を揃えていることも本展の特徴です。アメリカ・シンシナティ美術館が所蔵する「
みどころ③永田コレクション、最後の東京公開
本展監修者・永田生慈氏は北斎研究のために作品の収集も行いました。作品数は2000件を超えます。それらは昨年一括して、故郷の島根県に寄贈されました。そして氏の遺志により、本展に出品された後は、島根県のみで公開されることとなりました。つまり、本展は永田コレクションを東京で見ることができる最後の機会となります。
本展監修者・永田生慈氏について
永田生慈氏は1951年、島根県津和野町生まれ。幼少の頃に北斎の絵手本に魅了され、北斎研究を志しました。
楢崎宗重氏の薫陶を受け、学究の道に入ります。1972年から2016年まで『北斎研究』の発行に携わりました。その間、国内はもとより海外の美術館やコレクターを訪ね、未知の北斎作品の発掘にも努めます。浮世絵を専門とする太田記念美術館の設立に携わり、同館副館長兼学芸部長を2008年まで勤め、1990年には出身地の津和野に葛飾北斎美術館を開きました(2015年閉館)。また研究とともに収集にも邁進しました。北斎と北斎派のコレクションは2000件を超えますが、研究者ならではの視点で集められた稀少な作品が数多く含まれるのが特徴です。2017年には、自身のコレクションを島根県立美術館に寄贈することを決意。さらに氏は、国内外で数多くの展覧会を企画・監修し、北斎の魅力を伝えることにも尽力。2005年の東京国立博物館、2011年のベルリン、2014年のパリでの北斎展などいずれも大きな反響を巻き起こしました。本展を半世紀にわたって北斎と歩んだ自らの集大成とすべく準備を進めてきましたが、2018年2月6日に逝去されました。
春朗期 安永8年~寛政6年(1779~1794)20~35歳
20歳で浮世絵界にデビュー。勝川春朗と名乗り、役者絵や挿絵本を手がけました。かつてこの時代は単なる習作の時代として、個性的な特徴に乏しいとみなされてきましたが、作品が発見されるにつれ、精力的な創作活動を展開していたこと、そして画狂人・北斎の原点として重要な時期と考えられるようになりました。
宗理期 寛政7年~文化2年(1795~1805)36~46歳
勝川派を離れ、琳派の俵屋宗理の名を襲名した北斎は、浮世絵画派とは一線を画した活動を展開するようになります。優美な摺物(非売品の特製版画)や狂歌絵本の挿絵、肉筆画などを多く手掛けます。やがて「宗理美人」と呼ばれる楚々とした女性像を創造するなど、独自の様式を築きました。
葛飾北斎期 文化2年~文化6年(1805~1809)46~50歳頃
当時江戸で流行し始めた読本の挿絵に全力を傾注した時代。中国画的な力強い表現に洋風表現も取り入れた幻想的な画面によって「劇画的世界」を創りだしました。肉筆画では、若々しい少女のような様子から大人の色香漂う艶冶な美人像に変化していきます。一般によく知られた葛飾北斎を名乗ったのはこの時期です。
戴斗期 文化7年~文政2年(1810~1819)51~60歳頃
文化7年に戴斗(たいと)と号した頃から、北斎の関心は絵手本に移ります。人気が高まるにつれ、増加する門人や私淑する全国の人々に、絵の手本を与えようとしたのだと考えられます。有名な『北斎漫画』を含む多彩な絵手本を矢継ぎ早に刊行します。それまで師から弟子へ肉筆で描き与えることが一般的であったなかで、大量の印刷本による手本は画期的なものでした。また数は少ないながらも、錦絵や肉筆でも新たな世界を切り拓いていきます。
為一期 文政3年~天保5年(1820~1834)61~74歳頃
文政3年(1820)、61歳となった北斎は、号を為一(いいつ)と改めます。そして70歳を過ぎると、「冨嶽三十六景」をはじめとした北斎を代表する錦絵の揃物を次々と生み出していきました。風景画、名所絵はもとより、花鳥画や古典人物図、武者絵、さらには幽霊などその関心はあらゆる対象に向けられました。驚くべきことに、これら色鮮やかな錦絵の出版はわずか4年間ほどに集中しています。
画狂老人卍期 天保6年~嘉永2年(1835~1849)75~90歳頃
最晩年の北斎は肉筆画制作に傾注し、描くテーマも古典に取材した作品や花鳥、静物、宗教的な題材など浮世絵師の世界から離れ、独自の画境を追い求めていきます。長寿を願い、100歳まで生きれば「神妙」の域に達し、さらに描く対象の「一点一格」が生き生きとしたものになると信じ、筆を休めることはありませんでした。嘉永2年(1849)4月18日朝、北斎は90歳で生涯を終えます。「あと10年、いや5年命が保てば真正の画工になれたのに」と言い遺し、息絶えました。
※会期中、展示替えあり
主催:日本経済新聞社、NHK、NHKプロモーション、森アーツセンター
協賛:伊藤忠商事株式会社、凸版印刷株式会社、三井住友海上火災保険株式会社
特別協力:島根県立美術館
協力:日本航空