長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 世界文化遺産登録記念 クアトロ・ラガッツィ 桃山の夢とまぼろし―杉本博司と天正少年使節が見たヨーロッパ
会期: 2018-11-23 - 2019-01-27
参加クリエイター:
展覧会詳細
展覧会ジャンル:
アート
写真
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開催内容
長崎県美術館では、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 世界文化遺産登録記念」として、企画展「クアトロ・ラガッツィ 桃山の夢とまぼろし―杉本博司と天正少年使節が見たヨーロッパ」を開催いたします。
国際的に活躍する現代美術家の杉本博司は、2015年にイタリアのヴィチェンツァにあるオリンピコ劇場を訪れた際、天正少年使節が描かれた16世紀末の壁画と出会います。イエズス会主導のもと九州のキリシタン大名がヨーロッパに派遣した少年たちは、日本における布教の果実としてポルトガル、スペイン、イタリアを訪れ、フェリペ二世や有力諸侯、そしてローマ教皇に拝謁し、本場のルネサンスをリアルタイムで目撃しました。そしてその旅の途上、この劇場にも立ち寄っていたのです。この出会いをきっかけにイタリアでの使節の足取りを調べた杉本は、自分が既に少年たちが訪れた幾つかの場所を撮影していたことを知り、以後は意識的に彼らの足跡を辿って撮影を続けます。それは天正少年使節の足跡をめぐる旅であると同時に、日本と西洋を往還してきた自身の精神の出自をたずねる旅ともなりました。
本展は、杉本によるこの天正少年使節関連の近作群(「海景」シリーズを含め全28点)を、使節関連の貴重な史料や同時代の南蛮美術、キリシタン美術等(全58点)と共に展観するものです。無限に豊かな階調と細部を持つ杉本の大型作品と、長崎の「岬の教会」を描いた《南蛮渡来風俗図屏風》(逸翁美術館)やローマのジェズ教会が保管する3点の日本殉教図を始めとする貴重な作品・史料との対話をぜひご覧下さい。
長崎県美術館は、使節が1582年に出航し、8年後の1590年に帰還した地・長崎港を望む地に建っています。まさにその場所において杉本と少年たちのまなざしを400年の時を越えて重なり合わせる本展は、近世の幕開けに起きた東西の文化衝撃の鮮烈なありようを見つめ直すまたとない機会となるはずです。
※会期中、杉本作品を除く一部作品・資料の展示替えがあります。
前期:12月24日(月・振)まで後期:12月27日(木)から
天国の門-日本と西欧の十字路
2015年の春、私は生涯の仕事として取り組んできた劇場の撮影のため、ヨーロッパ各地を巡っていた。私はヨーロッパのオペラ劇場の最古の姿を今に留める、アンドレア・パラディオ設計になるテアトロ・オリンピコを訪れた。ヴェネト地方のヴィチェンツァにあるこの劇場の内部は、無数のギリシャ風彫像で装飾され、ロビーにも美しいフレスコ画が天井回りに描かれていた。劇場の支配人は私にこのフレスコ画の一面を指差し、この絵は1585年の劇場開館の年に、日本からの使節がローマへの途路、ここに立ち寄って歓迎を受けた場面を描いたものだと説明された。よく見ると日本人らしき4人が最前列に描かれている。私はこの4人が天正遣欧少年使節であることを知った。
俄然、私は少年使節のイタリアでの足跡に興味を覚え、その足取りを探ってみると、リボルノから上陸しピサからフローレンス、シエナを経てローマへ、その後アッシジからベニスへと向かっている。私はローマのパンテオン神殿もピサの斜塔もシエナの大聖堂も撮影している。これらの建物は少年使節が来た時にはすでにあった建物だ。私は偶然にも少年達が見たその建物を私も自分の眼で今見ているのだということに気が付いた。私は遥かな時代の彼方から声を聞いたような気がした。「私達が見たこのヨーロッパの風景を、今一度あなたにも見てもらいたい」という声を。その声は冥界からの声なのか私の心の声なのか、どこかで響き合い、木霊となって聞こえてきた。
私は今まで偶然にも辿った少年使節の足跡に加え、意図的にさらにその足跡を尋ね撮影を続けることにした、偶然が必然をうながしたのだ。400年以上の歳月が過ぎ去った今、どこまで当時の姿が再現できるかは不明だ、しかし私は人気の無い満月の下の深夜のパンテオン、閉館中の城館ヴィラファルネーゼの螺旋階段室、夜明け前のフィレンツェ大聖堂、そして今は博物館に展示されている初期ルネッサンスの名品「天国の門」を、休館日に人の気配無しに撮影することに成功した。
ローマ法王グレゴリウス13世は、天正少年使節をキリスト生誕時に東方から博士が来訪してキリストを礼拝した秘跡の再来として迎えた。日本人が初めて知る西洋、そして西洋人が初めて知る日本。私の血の中には四百数十年前の双方の驚きが、未整理のままに流れている。
私は私の精神の出自を訪ねて、目視確認の為の旅をまとめ、ここに展覧会としてお披露目する。
杉本博司
■天正遣欧少年使節とは
1579年に来日したイエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、日本での布教の成果をカトリック世界に示して今後の支援を得ることと西洋世界での見聞を日本に伝えさせることを目的として、日本人使節団の欧州派遣を企画。使節には有馬(現・長崎県南島原市)のセミナリオ(ヴァリニャーノが設置した司祭育成のための神学校)の1、2期生から4人の少年たち(伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン)が選ばれ、1582年2月に長崎を出港した。一行は1584年8月にリスボンに到着、スペインを経て翌年3月にイタリアに上陸し5か月を同地で過ごす。ヴァチカンではローマ教皇に謁見、この出来事は欧州中に喧伝された。1586年4月にリスボンを出港した一行は1590年7月に長崎に帰還するが、不在の間に日本のキリスト教をめぐる状況は一変。4人は翌年イエズス会に入会し、棄教したミゲルを除く3人が1608年に司祭となるも、やがて幕府の禁教、弾圧政策の中で病死、国外追放、殉教という運命を辿った。