澤田教一 故郷と戦場
開催概要
- 会期
- 2017年09月09日 〜 2017年12月25日
- 会場
- IZU PHOTO MUSEUM (静岡県長泉町東野クレマチスの丘347-1)
- 参加クリエイター
- 澤田教一
- ジャンル
- 写真
- タグ
- トークイベント、写真
開催内容
1936年に青森市に生まれた澤田教一は、米軍三沢基地での勤務を経て、1965年に戦火の絶えないインドシナ半島に赴きました。ベトナム戦争が拡大の一途にあった時期に最前線での撮影を続けた澤田は、34歳で銃弾に倒れるまでの約5年間に、数々の傑作を世に送り出し賞を受賞します。ピュリツァー賞受賞作に含まれる《安全への逃避》では、戦闘で故郷を追われながらも、必死に生き抜こうとするベトナムの人々の姿を捉え、世界中に戦場における過酷な現実を突きつけました。
本展では未発表のカットを含む写真や戦地から送られた電送写真原稿など約300点を展示いたします。写真に写し出された故郷と戦場、そこに交錯する生と死を通じて、澤田教一が身を賭して伝えようとしたベトナム戦争に追ります。「アメリカの戦争」について考えるよき機会となれば、幸いです。
[見どころ]
初期作品等未発表写真多数
本展ではサタ夫人所蔵のオリジナルフィルム約2万3000カットをはじめ膨大な資料を調査しました。そのなかから未公開カットを多数含めて新たにプリントしました。青森でのアマチュア時代に撮った米軍三沢基地内やその周辺の風景写真は、華やかな基地内の生活と青森との風景の間にあるギャップを写し出し、戦場カメラマン・サワダを生んだ土壌について、多くのことを物語っています。またベトナムやカンボジアでの未公開写真からは、同行した米軍の戦いぶりだけでなく、彼らが捕えた解放戦線の容疑者や兵土たちが見せる表情を通じて、束アジアにおける「アメリカの戦争」に翻弄される人々の姿を伝えることに対する澤田の強い関心が浮かび上がってきます。
テト攻勢下のフエ
1968年のテト攻勢の際に、誰よりも早くフエに入り前線で撮影した攻防戦のシリーズを、澤田の最高傑作と呼ぶ人は少なくありません。戦闘の勃発から収束まで、約1か月にわたるフエの取材を大型写真と連続カットのパネル写真で展示。戦場写真の迫力と緊張感を伝えます。展示用のインクジェットプリント制作にあたっては、写真家の北島敬三氏が監修しました。
遺されたネガをシークエンスで
澤田が遺したネガは、UPIなどで配信用に使用されたため、バラバラな状態で保管されていました。本展では、調査に基づきそれらをつなぎ合わせ、連続したシークエンスとして見せることで、戦場という切迫した場でのカメラマンの身体や判断のあり方、撮影の方法などを検証します。
[澤田教一略歴]
1936年 青森県青森市に生まれる。
1954年 青森県立青森高等学校卒業。
1955年 米軍三沢基地内のカメラ店で働きながら、本格的に写真を撮り始める。
1961年 プロのカメラマンを目指し上京。
同年12月UP1通信社東京支局写真部に入社。
1965年 UPIサイゴン支局にスタッフカメラマンとして赴任。
9月、代表作となる《安全への逃避》を撮影。
この写真で12月、第9回世界報道写真コンテスト第1位を受賞。
1966年 《安全への逃避》を含む一連のベトナム戦争の写真でピュリツァー賞を受賞。
《泥まみれの死》、《敵をつれて》が、第10回世界報道写真コンテストで第1位、第2位を受賞。
ベトナム戦争の写真でU.S.カメラ賞を受賞。
1968年 2月、テト攻勢下のフエを撮影。
9月、UPI香港支局写真部長として転勤。
1970年 UPIサイゴン支局に再び赴任。
5月、カンボジアでUPIプノンペン支局長のロバート・ミラー記者と共に取材に向かう途中、共産主義勢力の兵士に捕まり、8時間あまり拘束されるが無事生還。
10月、カンボジア取材中、プノンペン近郊で銃殺され、34歳で死亡。
カンポジアを取材した一連の写真により、1971年のロパート・キャパ賞を受賞。