複合回路 Vol.6 石井友人 「認識の境界」
会期: 2011-01-15 - 2011-02-19
参加クリエイター:
展覧会詳細
展覧会ジャンル:
アート
展覧会タグ:
トークイベント
レセプションパーティー
平面
開催内容
「イメージのパンデモニウム」 田中正之(キュレーター)
かつて構造主義的な記号論に基づくコミュニケーション理論が一般的であったときには、コミュニケーションの成立を支えているのはコードだと考えられていた。送り手(話し手)と受け手(聞き手)との間にはコードが共有されていて、そのコードに基づいて送り手の信号が解読されて受け手がその意味を理解する、と考えられていた。しかし、この静的でいささか簡素なモデルは、現在ではもはや素朴に信じられてはいない。何よりも信号(あるいは記号)の解読にあたっては、コードのみが決定因子になっているわけではないからである。たとえば「文脈効果」と言われるように、ひとつの同じ記号ないし信号であっても、文脈が変われば、その意味するところはダイナミックに変わる。受け手の側もまた単なる受動的な存在なのではなく、何らかの文脈との関連付けを行うことによって能動的に意味の産出に加わっている。とすれば、ある記号や信号が持つ意味は、特定の場所と時間とに強く結びついて、そのつどそのつど作り出されるものだということになり、意味の成立とは、やや大袈裟に言えばひとつの「事件」とも言えそうな瞬間的な出来事となる。このような考え方は、記号や信号の意味の成立を説明するための重要な理論だが、同時にまた、意味が成立しない可能性、記号や信号が何を表しているのか、その解読が宙吊りとなる可能性を示唆してもいる(たとえば、関連付けるべき文脈が決定できない状況)。
視覚とは、そもそも特定の瞬間に結びついた断片的な出来事であり、この瞬間的(で断片的な)「事件」を統一的な画面を持った一枚の絵画へと仕立てあげることの困難は、それこそセザンヌ以降絵画に突きつけられてきた問題である。そして、記号や信号が多様な意味を生み出しうると同時にその産出が挫折することもありうるのと同様に、ひとつの視覚的映像もまた、多様な要因に応じて多彩に受け取られ、展開し、混乱しうる。石井友人の作品は、何よりもこの問題を出発点としているように思われる。ある視覚的情報からイメージが作り出されるとき、そのイメージは決してひとつではありえず、あらかじめ定められた命法によって演繹されるようなひとつの統一的イメージへと収斂することはない。まるで「複眼」に映る多様な像のように無数のイメージに展開しうるはずだ。そして、そのイメージがコミュニケーションのなかでさらに他の人々へと伝達されていけば、さらにその展開の多様性は加速していく。伝達のあいだにノイズが混入し、イメージが混乱することもありえる。ひとつの決定的イメージをテロス(目的地)とすることなく、混乱を引き起こしつつも展開を続けるイメージの世界。石井友人の作品は、そのような世界のなかへと人々を誘い込み、統一的イメージの成立など想定しようもない視覚像のパンデモニウム(大混乱、無法地帯)を突き付けてくるのである。
●αMプロジェクト2010「複合回路」は3人のキュレーターによる企画展です。田中正之企画:「認識の境界」
「認識の境界」
立体的造形にしても平面的イメージにしても、あるいは日常的に目にする現象にしても、それらは決して自律的、自足的に存在しているのではなく、ある任意の「見る主体」の存在を前提とし、そしてその主体によって「見られる対象」となっている。しかし、この両者(見る主体と見られる対象)の間の「まなざしの交換」には、いかなるノイズも屈折も介入してこないスムーズな結びつきが成立しているのだろうか。むしろ、関係は非常に危ういバランスの上に成り立っているのではないだろうか。その危うさを、時に私たちは自分たちの見ているものの識別のあやふやさを暴露されることによって実感できることがある。
そのような、認識があやふやとなるようなゾーン(=境界)を積極的に制作の対象としてとりあげ、「見る」という行為のあり方を根源的にわれわれに問いかけてくる作品がある。そして、そのようなぎりぎりの領域(=境界)を問うことによって、その粗(あら)をむき出しにされた「まなざしの交換」は、どのようなものであれ関係の構築がはらむある種の軋みといった問題へと、それこそまなざしを向けさせるのである。
「複眼」 石井友人
イメージは見えるもの(あらゆる表示されたもの)を単純に前提とすることができない。視覚世界は、外部からの情報入力と内部における情報翻訳によって構成される。そして、身体における眼→脳への翻訳は、視覚的データ→イメージへの変換と関連付けることができる。
二連画による対解釈をコンセプトとした「イメージ/シグナル」においては、絵画による写真再現を、客観化された視覚として捉え、「光と色彩から来る瞬発的な反応に属する視覚性」(=シグナル)と、「映像認識から空間の構造化へと向かう視覚性」(=イメージ)とを、意識的に対比した。対象化された「イメージ/シグナル」という視覚レベルの質的差異は、可視的情報の複数性とその翻訳可能性を示唆するものである。
本展においてはそのうえで、複雑化した情報環境に対する一つのアプローチとして「複眼」というモチーフを採用した。「複眼」とは見る事感じる事の原初的メタファーである。「複眼」を視覚情報の信号性とその受信という問題を前景化させるものとして考え、そして、デジタルな信号の受信を身体感覚とシンクロさせるものとして捉えた。「複眼的」という比喩はそのまま、「イメージ/シグナル」がはらむ可視的複数性の謎へと接続するだろう。
ペインティングに向かう際は、世界に触れているというデリケートな触覚を常に持っている。自分なりの思考モデルとして、絵画視覚の表現を試みた。