稲垣 美侑「野辺」
開催概要
- 会期
- 2026年07月18日 〜 2026年08月09日
- 会場
- KATSUYA SUSUKI GALLERY (東京都目黒区柿の木坂1-32-17)
- 参加クリエイター
- 稲垣美侑
- ジャンル
- アート
- タグ
- 絵画、アート
開催内容
KATSUYA SUSUKI GALLERYでは、2026年7月18日(土)より、稲垣美侑による弊廊では2回目となります個展「野辺」を開催いたします。
稲垣は、家や庭、空き地、身近な植物や生きものたちが息づく生活環境を繰り返し観察しながら、私たちが生きる場所と、そこに広がる景色について問い続けています。その制作は風景を描き写すことを目的とするのではなく、場所に堆積する時間や記憶、生命の気配をすくい上げ、絵画や展示空間のなかに再構成する試みです。作家が一貫して掲げる「世界はどのような姿をしていたのか」という問いは、日常のなかで見過ごされがちな身近な環境への観察を起点としながら、人間中心の視点を緩やかにずらし、多様な生物がそれぞれに経験する環境や生息の条件へと開かれています。
近年の制作では、その関心はさらに絵画という媒体そのものへと向けられています。絵画を単なるイメージが表象される支持体ではなく、物質や光、色彩、空間、そして鑑賞者の知覚が交差することで像が生成される一つの〈環境〉、あるいは〈生息地(habitat)〉として捉える試みです。そこでは描かれた痕跡と、それを受け止める絵画の場が重なり合い、作品そのものが新たな風景として立ち現れます。
こうした実践は、「何を描くか」という問題にとどまらず、「絵画とはいかなる場所であり得るのか」という絵画史に連なる問いへと接続しています。人と自然、表象と存在、過去と現在──そうした境界を静かに揺らぎ直す作品は、私たちが世界のなかに棲まうことと、絵画という場に身を置くこととを緩やかに重ね合わせながら、新たな環境としての絵画を提示します。
本展「野辺」は、その探究の延長線上にある試みです。「野辺」とは、人の営みと自然が緩やかに交わる周縁の場所であり、名づけられることなく日々生成と変化を繰り返す環境でもあります。そこには道端の草花や虫、湿度や日照、小さな土壌の起伏など、日常の視界からこぼれ落ちてしまうような無数の生態が息づいています。稲垣はそうした場所に身を置き、世界を構成するささやかな存在とその関係性を見つめながら、それらが織りなす時間や気配を絵画として立ち上げます。
稲垣による「野辺」の探究は、絵画を新たな風景が立ち現れる〈環境〉として提示し、私たちと世界との関係をあらためて見つめ直す機会となるでしょう。
この機会に、是非ご高覧ください。
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“野辺 ”
雨が降る
根は暗がりに、
土は水を抱き
光は葉の裏へまわる
名もなき芽がひらき
朽ちた枝は虫の居場所、
羽は風の流れを渡る
去るもの
残るもの
生まれるもの
還るもの
幾つもの時間が折り重なり、
静かに息づく
起伏を歩く
目と同じくらいの速度で
昨日にはない草丈
昨日にはない声
日照、
焦げた土を踏む
「野辺」とは、人里に接する野原や草地を意味する古語であり、季節の移ろいや生きものたちの営み、人の記憶や生と死が交わる場所として古くから詠まれてきた。古来、日本人はそのような場所に世界の豊かさを見いだし、名もなき草花や虫、水辺の揺らぎに季節や命の移ろいを感じとったという。
そこには対象を固定されたものとして捉えるのではなく、異なる存在や時間が一つの場所に響き合う関係性を見いだす、知覚のあり方そのものがうかがえる。
私はこの言葉を、ある特定の土地の表層としてではなく、さまざまな存在がそれぞれの時間を携えながら、共に在ることのできる環境として捉える。
どこに根を張るか。光は、風は届くのか。水は留まるか。異なるかたちは存在できるのか ──「環境」は単なる空間的な区画ではなく、温度・湿度・光・栄養素といった無生物的要素と、同種や他種の生物、さらには微生物群集までを含む多層的な生態ネットワークの総体であり、生きものとその環境との関係性、つまり存在の条件そのものを含意している。
棲みかをめぐる断片を周期的に観察することで、異なるスケールや視点が立ち現れてくる。それはかつて何者かが棲まう家であり、忘れられた空き地であり、動物や植物の暮らす自然環境であり、同時に私たち人間が無意識のうちに共存している無数の生命の気配や痕跡が織りなされた空間である。
そして絵画もまた、何らかのイメージが生成される複雑な生の場所といえるかもしれない。それは囲いでも支配でもなく、境界線のにじむ日常の余白のようなものであり、絵は見えない多層の世界と、私たちの感覚のあいだに生まれた接点としてある。
価値づけの一歩手前、周辺に転がる名もなき景色について考えてみる。
稲垣 美侑