卑弥呼の鏡 ー三角縁神獣鏡が ヤマト王権をつくったー

開催概要

会期
2026年10月31日 〜 2027年01月11日
会場
九州国立博物館 (福岡県太宰府市石坂4-7-2)
ジャンル
アート
タグ
卑弥呼、九州国立博物館、九博

開催内容

 いまから約1800年ほど前、弥生時代末頃にあたる西暦239年
のこと。倭の女王・卑弥呼は、中国・魏に使いを送り、皇帝から銅鏡百枚を賜りました。
 これが、「卑弥呼の鏡」。
 この中には、各地の古墳から出土する銅鏡「三角縁神獣鏡」が含まれていた、と考えられます。
 卑弥呼、そしてそれに続くヤマト王権は、この鏡を各地の王に配り、自らの権威を高めました。
 本展では、最新の研究成果より、卑弥呼の鏡、そしてヤマト王権の誕生のひみつをさぐります。

[展示構成]
第1章 倭人と鏡のなれそめ
 紀元前2000年頃、中国で、青銅、つまり銅とスズの合金を溶かして、鋳型に流し込んで作った鏡が登場します。
 太陽の光を鏡面に宿すその神秘性からでしょうか、鏡背面には、神話や理想の世界が、複雑な文様で表現されました。
 三角縁神獣鏡は、後漢~三国時代に流行した「神仙思想」にもとづき、神や仙人、霊獣を鏡背面に描き出す鏡です。
 縁の断面が三角形なので「三角縁」、神や仙人、霊獣をあらわすので「神獣」の名をとって、「三角縁神獣鏡」と名付けられました。
 紀元前108年、朝鮮半島に「楽浪郡」が成立すると、弥生社会に漢王朝の文化が流れ込みます。その中に、中国製の銅鏡がありました。倭人と中国鏡の出会いです。
 北部九州の有力者は、そのきらめく輝きを独占し、墓におさめました。30面、40面といった大量の鏡が、有力者の墓に副葬されたのです。
 ここに、持つ者と持たざる者の格差が、はっきりとあらわれたのです。
 そして、この格差が、集団どうしの競争を引き起こすことになりました。「倭国乱」もその一つ、と考えられます。

第2章 ヤマト王権の登場
 弥生時代後期、西日本全域ではじまった集団間の競争を勝ち抜いて、各地で、有力な集団とその統率者「王」があらわれていきました。
 王たちは、各地からそれぞれの葬送儀礼を持ち寄って、ひとつの中心的な勢力(ヤマト王権)のもとで、共通した葬送儀礼を作り上げていきました。
 そして、ヤマト王権は、巨大な塚(前方後円墳)に王を葬る、新たな葬送儀礼をつくりだしました。その中に、三角縁神獣鏡の副葬も含まれていました。ここに、三角縁神獣鏡が大量に必要とされたひみつがありました。

第3章 三角縁神獣鏡をさぐる
 ヤマト王権によって、副葬品として採用された三角縁神獣鏡ですが、この鏡の誕生の秘密をさぐっていきましょう。
 大きな手掛かりが「紀年銘鏡」です。
 初期の三角縁神獣鏡のなかには、中国・魏の「景初3年(239)」、「正始元年(240)」の銘文を持つものがあります。これは、魏志倭人伝に記録された、女王卑弥呼の魏への遣使(239年)と、魏からの返使(240年)の年と合致します。
 近年、三次元計測などの最新の研究手法により、三角縁神獣鏡の誕生に迫る研究成果が提供されてきています。
 三角縁神獣鏡の大きさは、ほぼすべてが直径22センチ前後にそろいます。
 また、三角縁神獣鏡は、鋳型を再利用するなどして、同じ文様の鏡をたくさん作ります。
 これらのことから、三角縁神獣鏡が生まれた背景には、同じ大きさの鏡が、急ぎでたくさん必要になった、という状況があったと想定されます。
 そしてその時期は、卑弥呼が魏へと使いを送った時期。
 三角縁神獣鏡が、卑弥呼に下賜するために特別に鋳造された鏡である、という説を、「特鋳鏡説」とよびます。

 卑弥呼以後も、三角縁神獣鏡は作られ、日本列島に送られた、とみられます。こうして、600面もの三角縁神獣鏡が出土することになりました。

 魏の年号があるということは、この鏡が中国、魏で、3世紀中ごろに創出されたことを示す証拠として重要ですが、他にもこの鏡が中国で作られたことを示す証拠を、いくつか展覧会のなかでご紹介します。

 たとえば、神仙思想にかかわるさまざまなモチーフを見てみましょう。
 三角縁神獣鏡には、神仙や霊獣のほかに、海のかなたの理想郷、蓬莱山や、仙人が住むとされる崑崙(こんろん)山を模した香炉「博山炉」などが描かれています。

 古墳時代中期になって日本列島に持ち込まれたはずの馬3頭に曳かれる馬車。いずれも、古墳時代前期の倭人たちが見ることもできなかったモチーフです。
 日本での仏教公伝は6世紀中ごろのことですが、それよりも300年近く前に三角縁神獣鏡に仏像が鋳出され、日本に持ち込まれていました。
 こうしたさまざまなモチーフは、中国で当時流行していた思想などから採用されました。日本列島の人びとには入手しえない情報で、この鏡が中国で作られたことをはっきり示します。

第4章 三角縁神獣鏡はかたる

 三角縁神獣鏡は、同じ文様の鏡がたくさん作られたため、同じ時期に鏡を入手した王たちの間で、同じ文様の鏡が共有されることになりました。
 例えば、福岡県石塚山古墳の鏡は、同じ文様の鏡が京都の椿井大塚山古墳、奈良の黒塚古墳などからも出土しており、おそらく同じ時代に各地をおさめた王たちだったと思われます。
 また、三角縁神獣鏡は、ヤマト王権が各地に権力を伸ばすために、各地の王に配られたと考えられます。ヤマト王権は、魏との交流を維持するため、近畿から北部九州へとつなぐ交易の道を、三角縁神獣鏡を配ることで、作り上げました。
 このころ博多湾の沿岸にあった「西新町遺跡」は、交易の港町。朝鮮半島からやってきた人々が多く住んでいました。また西日本の各地からも、多くの人たちが訪れました。その痕跡を、各地の特徴があらわれた土器からたどります。
 西新町遺跡の隣にある藤崎遺跡では、三角縁神獣鏡が副葬された墓も見つかっています。この港町がヤマト王権からいかに手厚く扱われていたかがわかります。

第5章 ヤマト王権と鏡その後
 4世紀後半、三角縁神獣鏡が入手できなくなると、ヤマト王権は
① 武器や馬具など、あらたな権威の象徴を創り出す
② 新たな鏡を中国・南朝の宋に求める
という形で、地方の王たちとの関係を維持しようとします。
 また、鏡を墓におさめる以外の使いかたをしていることを示す資料がみられるようになります。鏡に、「副葬品として以外の用途」が与えられたことを示すのかもしれません。

卑弥呼の鏡 ー三角縁神獣鏡が ヤマト王権をつくったー