生誕140周年記念企画 ニューヨークの藤田嗣治

開催概要

会期
2026年07月11日 〜 2027年01月11日
会場
軽井沢安東美術館 (長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢東43番地10)
参加クリエイター
藤田嗣治
ジャンル
アート
タグ
油画、平面、絵画

開催内容

第二次世界大戦後、「民主主義への転換」と「表現の自由の獲得」を理念に掲げる美術団体の設⽴が相次ぐなか、戦時下に作戦記録画を描いたことが理由で「戦争協⼒者」と見なされ、画壇での居場所を失いつつあった藤田嗣治(1886-1968)は、自由な創作を求めて⽇本を去ることを決意します。1949年3月、⽇本を後にした藤⽥が最初に向かったのは、パリではなくニューヨークでした。彼の念願であった⽇本からパリへの直接渡航は叶わず、まずは渡⽶したうえで、最終的にパリに戻るルートをとったといわれています。いずれにせよ藤⽥が⽇本を去ることを決断してから、すでに約3年の月日が流れていました。

⽇本を⾶び出した藤⽥が求めたのは、「萬世不滅の傑作」を後世に残すことでした。ニューヨークでは、⽇本とは異なる解放感や豊富な画材に囲まれ、新たなモチーフや技法に挑戦しながら、制作活動に没頭していきます。ニューヨークでの約半年間の成果を発表した、マシアス・コモール画廊(Mathias Komor Gallery)での個展(1949年11⽉10⽇〜26⽇)は、予想以上の成功を収め、画家「Foujita」の才能を改めてニューヨークの美術界に示しました。この個展は、欧米のアートシーンにおいて自身の存在感を依然として示せたこと、また最終⽬的地であるパリへの渡航を確かなものにしたという点で、画家にとって極めて重要な意味をもったといえるでしょう。このニューヨーク滞在は、彼のその後の創作に明らかに影響を及ぼすことになりました。

軽井沢安東美術館は、この1949年に制作された傑作《猫の教室》をはじめ、ニューヨークの個展に出品されたと考えられるいくつかの重要な作品を所蔵しています。本展では、⽣誕140周年企画「ニューヨークの藤⽥嗣治」と題し、藤田作品を多数収蔵するポーラ美術館や目黒区美術館の協力を得て、ニューヨークで制作された作品を中⼼に、戦後の東京からニューヨーク、そしてパリへ再び戻るまでの藤⽥に活動をご紹介します。1949 年の個展のみならず、ニューヨークへ旅⽴つ前の作品や再びパリに渡った後の作品にも⽬を向けながら、藤⽥の画⾵の連続性や変化を探ります。

[展示構成]
第1章 1940年代 敗戦から日本脱出まで
戦時下において藤田は多くの戦争画を制作しましたが、同時に描きたいモチーフにも密かに挑み続けていました。終戦後はそれまで渾身の力を込めて描いてきた戦争画に背を向け、1920年代のエコール・ド・パリの時代に数多く描いた西洋人女性の裸婦像の制作へと戻っていきます。彼の代名詞ともいえる繊細で美しい輪郭線もここにきて再び息を吹き返しました。もっとも、それは単なる過去へ回帰ではありませんでした。藤田は裸婦の背景に具象的な自然の姿を描いたり、人物の周りを擬人化した動物で取り囲んだりと、新たな画風にも果敢に挑戦しています。
その一方で、藤田はフランス大使館を訪れ、日本からの脱出を計画していました。戦争責任をめぐる問題や、美術団体・制度の再建と権力争いなど、雑音の多い日本を一日も早く離れ、制作に没頭したいと願ってのことでした。しかし、その思いが実現するのはそれから3年後の1949年、しかも渡航先はフランスではなくニューヨークでした。本章では、アメリカの占領下で制作された作品を中心に、日本脱出を目指した藤田がニューヨークへ渡航するまでの動向を振り返ります。

第2章 1949年 ニューヨーク滞在記
1949年3月、ニューヨークに渡った藤田は開放的な空気のなかで良質の画材を用い、思う存分、制作に打ち込める喜びを噛みしめていました。「萬世不滅の傑作を残したい」と書き残しているように、この地は藤田の創作意欲を駆り立てたのです。タイル模様の作品、ガラス画、瀬戸物のためのデッサン、そして擬人化された動物画など、藤田はさまざまな作品の制作に挑戦しています。ニューヨークでの絵画制作の成果を発表するべく、11月にマシアス・コモール画廊で開催した個展は大成功を収めましたが、藤田はニューヨークに留まる道を選ばず、1950年1月27日、妻の君代とともにパリへと向かいました。
本章では、ニューヨークで描かれた作品や絵手紙を紹介します。また藤田本人がしたためた日記などを手掛かりにパリへ向かった理由を探りながら、約10か月に及ぶニューヨーク滞在を振り返ります。

第3章 1950年以後 パリでの生活と信仰
1950年2月、藤田は郷愁と輝かしい未来への期待を胸に、約10年ぶりにパリへ舞い戻りました。しかし、藤田を待ち受けていたのは、戦争をめぐる厳しい詰問でした。さらに異国での生活に馴染めず苛立ちを募らせる君代への気遣いに加え、パリでの再起を阻もうとするデマにも対処しなければならなりませんでした。そうした状況のなかで藤田が好んで描いたのは、昔日の面影を湛える街並みや純粋無垢な子どもたちの姿、そして宗教的な象徴性を帯びたモチーフでした。藤田は癒しや懺悔を求めていたのでしょうか。以降は母子像や聖母子像を描き続けることで、彼のカトリックへの憧れや信仰心は少しずつ高まっていきました。そして1959年10月、藤田は君代とともにカトリックの洗礼を受けます。
こうした精神的な苦悩があったとはいえ、藤田の作品はニューヨークと同じくパリでも正当に評価されていきました。1951年のサロン・ドートンヌに約20年ぶりに参加し、《ラ・フォンテーヌ頌》(ポーラ美術館蔵)を出品したことをはじめ、数年に一度、ポール・ペトリデス画廊で開かれる個展は評判がよく、またパリ市立近代美術館などで開催される「時代の証人の画家たち」展の常連メンバーとして活躍しました。そして1957年にはフランス政府から二度目のレジオン・ドヌール勲章(オフィシエ)を授与されたのです。
本章では、ニューヨークでの成功を携え、パリへ戻った藤田が、様々な苦悩に翻弄されながらも、フランス人画家としての人生を再構築しようと精励した時代を振り返ります。


[本展のみどころ]
1.1949年、NYで開かれたマシアス・コモール展以来、藤田の代表作である
《ラ・フォンテーヌ頌》(ポーラ美術館所蔵)と《猫の教室》が76年ぶりの共演!
藤田の代表作は「乳白色の下地」の裸婦だけではありません!1949年、ニューヨークで制作された《ラ・フォンテーヌ頌》と《猫の教室》は、藤田作品のなかでも大作であるだけでなく、とても人気のある作品です。この2点が同時に展示されるのは、1949年のマシアス・コモール画廊に続いて、パリに戻った1950年、ポール・ペトリデス画廊で開かれた個展の時以来。藤田はこの2点を手離すことなく、パリで披露することを切に願っていたことがうかがえます。76年の時を超えて、貴重な二点が共演します!(会場:展示室3)

2.かわいい、ユニークな挿絵がいっぱいの絵手紙(目黒区美術館所蔵)全36点を大公開!
目黒区美術館が所蔵するシャーマン・コレクションのなかの絵手紙26件/36点全てを3回にわけて展示します。シャーマンこと、フランク・シャーマンは連合国最高司令官総司令部(GHQ)の民生官で、藤田の大ファンであるとともに、彼の日本脱出を支援した立役者でした。藤田がニューヨーク到着後、数か月にわたってシャーマンに宛てた絵手紙からは、ポップな雰囲気や当時の心境がうかがえます。(会場:展示室3)

3.常設展 「作品とともに巡る藤田嗣治の軌跡」
「ニューヨークの藤田嗣治」展と同時開催となる本展「作品とともに巡る藤田嗣治の軌跡」では、藤田嗣治の初期から晩年に至るまでの作品を一堂に紹介し、彼が歩んだ画業の軌跡をたどります。展示室は「自宅のような美術館」という当館のコンセプトをもっとも色濃く体現した空間。深紅の壁にシャンデリアがきらめき、ソファを配した展示室は、まるで邸宅のサロンのようなおもむきです。作品とともに、藤田の世界にゆったりと浸る特別な時間をお楽しみください。(会場:展示室5)

生誕140周年記念企画 ニューヨークの藤田嗣治