TOKYO2021
会期: 2019-08-03 - 2019-10-20
参加クリエイター:
展覧会詳細
展覧会ジャンル:
アート
建築
展覧会タグ:
開催内容
この夏、各分野で活躍するクリエイター達が東京という都市の過去を新しい視点で検証し、未来の発見をしていくアートイベント「TOKYO 2021」が始まります。
本企画は東京・京橋にある戸田建設本社ビルの解体直前の空間を利用した、従来のオフィス街では実現が難しかったダイナミックな展開を、TOKYO 2021実行委員会(総合ディレクター:藤元明/企画アドバイザー:永山祐子)が、戸田建設の主催とともに実現するものです。
2020年に開催される東京オリンピック・パラリンピックは、メディアから演出された日本が国内外に発信される機会になります。そこで表層化される日本像とそこに引きずられる価値観に対し、本企画では「建築」と「現代美術」のふたつの展覧会を通じ「2021年以降を考える」ことに大マジメに向き合います。
アートの観点だからこそできる、これまでの日本の都市史、美術史の再解釈と、これからの新しいヴィジョンを、東京を舞台に展開します。
建築展|8/3〜8/24
課題「島京2021(TOKYO2021)」
都市の前提が揺らぐ現代社会の変化を背景に、ポストオリンピック・パラリンピック=2021年以後の東京の都市状況を「東京=島京2021」をキーワードに考えたいと思います。建築の教育現場では建築家から架空の設定をもとに課題が出され、それに対して提案が制作されます。課題には時代性や出題者の建築観が盛り込まれます。今回は建築家である中山英之、藤村龍至が「東京=島京2021」の現状に対するオルタナティブを問う課題を作成し、“考える現場” としての建築展を提案します。参加者は若手建築家とともに展示期間の1ヶ月間を通じて制作と議論を続け、提案をまとめていきます。最後には多種多様なゲスト迎え討論を行い、来場者と共に東京の未来像について考えます。
美術を学ぶ学生は、実社会で作家活動を行うアーティストとなんら変わらず、絵を描き、彫刻を彫り、映像を撮ります。一方建築を学ぶ学生は、建築家と同じように家を、美術館を、駅を、タワーを建てることはできません。
けれども、だからこそ建築教育の現場で出題される「課題」には、出題者自身の問題意識が反映されることになるし、そこへの応答として練り上げられた学生たちによる架空の設計図は、現実の都市を向こうに回した、あり得たかもしれないもうひとつの都市を、時に描きさえもするのです。
2021建築展とは、この建築「課題」の持つ想像力や批評性を、展覧会の形を借りて広く公開することで、私たちにとっての2021とは何かを問い、描き出そうとする試みです。
課題タイトルは島京2021(TOKYO2021)です。
大手町、日本橋、京橋、銀座、六本木、渋谷、品川、、、。
複数のエリア再開発が同時多発的に進行し、互いに競争を繰り広げる現在の東京を、エリア=島の集合体の都=「島京」と仮に呼んでみます。
この「島京」化へと連なる東京の近現代史を背景に、そこにもうひとつ、現在の「島京」への批評としての新たな「島」を構想することが、今回の課題です。
取り組むのは学生、社会人を問わず公募される複数のチーム。各チームは、議論を活性化するために選抜される若い世代の建築家と対話を重ねながら、案を練り上げて行きます。
それらのプロセスは、ゲストを招いた最終講評会まで全てが会場で進行し、そのまま公開されます。
課題とそこへの応答を通して、2020年のオリンピック・パラリンピックにピークを迎えるであろうこの「島京」化のその先の東京を問い直す試み。それはあるいは、島京/島国=東京/日本という入れ子構造を透かして、この国の「2021」を考えることでもあると言えるかもしれません。
美術展|9/14〜10/20
「慰霊のエンジニアリング」
「災害」と「祝祭」を交互に繰り返してきたこの国の歴史のなかでは、美術も、建築も、土木も、あらゆる文化や科学が「慰霊のエンジニアリング(engineering of mourning)」を続けてきました。本展では、美術家・黒瀬陽平のキュレーションのもと、近現代日本の「災害」と「祝祭」の歴史を振り返るとともに、いかに現代美術が同時代の他ジャンルと並走しながら「慰霊のエンジニアリング」を更新してきたのかを提示し、従来の日本現代美術史の枠組みの根本的な解体と書き換えを試みます。
本展は、来るべき2つの「祝祭」(2020年の東京オリンピックと2025年の大阪万博)に向けて企画された現代美術展である。
戦後日本は、ほぼ一定の間隔で大規模な祝祭を繰り返してきた。現に今度の2つの祝祭は、1964年の東京オリンピックと1970年の大阪万博をきれいに反復しているように見えるだろう。
しかしよく見れば、繰り返される祝祭と祝祭のあいだには必ず、大規模な「災害」が起こっている。1964年と1970年の祝祭の前には、原爆投下と敗戦が、2020年と2025年の前には、2011年の東日本大震災がある。
つまり、この国では祝祭は必ず、災害に先行されている。災害が繰りかえすからこそ、祝祭もまた繰り返されるのである。この認識を抜きに、祝祭について考えることはできない。
このような繰り返しを、災害大国であるこの国に宿命付けられた「忘却と反復」であり「もうひとつの永劫回帰」なのだとする歴史観もある(「悪い場所」)。しかし、今まさに眼前で繰り広げられようとしている忘却と反復のなかで、「宿命」に抗い、反復の外へ出るための術を模索することこそ、芸術の「使命」であるはずだ。
本展では、反復される災害と祝祭のなかで、新たな想像力や表現を生み出す芸術の営みを、「慰霊のエンジニアリング(engineering of mourning)」と名付け、その系譜をたどってゆく。
なぜ「慰霊」なのか。災害の後には復興がある。しかし、失われたものや死者たちを弔うことなしに、復興への道は開けない。慰霊の問題は、宿命的に繰り返される災害から立ち直り、前へ進もうとする私たちの社会全体にとって、避けることのできないものだ。
なぜ「エンジニアリング」なのか。「文明災」(梅原猛)という言葉があるように、災害もまた文明とともに「進化」する。だとすれば、それに対応する学や技術も、エンジニアリングとして更新されてきたはずである。 災害と祝祭は宿命的に繰り返すかもしれないが、それを乗り越えようとする人々の想像力や表現、技術は、決して同じ繰り返しではない。それは孤独な「喪の作業(mourning work)」ではなく、その時代のあらゆる文化、科学と関係しながら更新されてゆく、慰霊のエンジニアリングなのである。
本展は、近代日本の「国土づくり」の根幹であった「近代土木(civil engineering)」の思想が失効しはじめた1970年代を起点としている。70年代以降のアーティストたちがいかに、コンピュータ文化、ゲーム文化、インターネット文化などを取り入れながら、想像力とテクノロジーによって、古今東西の災害記憶をヴァーチャル化し、投企してきたのかを明らかにする。
日本現代美術史を、慰霊のエンジニアリングの系譜の一部として考える本展の視座は、既存の美術史を解体すると同時に、時代と並走しつつ、最新のテクノロジーやサブカルチャーと一体になった、新たな日本現代美術史を描くはずである。
※本展のコンセプトは、第15回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展日本館コミッショナー指名コンペティションの応募企画書として、2015年に提出された「怨霊の国を可視化する」に大きな示唆を受けています。(コミッショナー:東浩紀。本展キュレーターの黒瀬陽平は「カオス*ラウンジ」名義で参加)