寺山修司

寺山修司 テラヤマシュウジ
タグ
開催中
 
これから開催
 
Biography
1935年(昭和10年)12月10日生まれ。
1954年(昭和29年)早稲田大学教育学部国文学科(現・国語国文学科)に入学。山田太一とは同級。在学中から早稲田大学短歌会などにて歌人として活動。18歳で第2回短歌研究50首詠(後の短歌研究新人賞)受賞。混合性腎臓炎で立川の病院に入院。
1955年(昭和30年)ネフローゼと診断されて入院。
1956年(昭和31年)在学1年足らずで退学。

more...

20歳で処女戯曲『忘れた領分』が早稲田大学の大隈講堂「緑の詩祭」で上演され、それを観た谷川俊太郎の病院見舞いを受けて交際が始まる。
21歳で第一作品集『われに五月を』が出版される。
1958年(昭和33年)第一歌集『空には本』が出版される。退院。また、石原慎太郎、江藤淳、谷川俊太郎、大江健三郎、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対。
1960年(昭和35年)2月第3作目のラジオドラマ『大人狩り』が放送される。長編戯曲『血は立ったまま眠っている』が浅利の「劇団四季」で上演される。篠田正浩監督作品のシナリオを担当し、大島渚と出会う。
25歳でハツと四谷のアパートでおよそ12年ぶりに同居。
27歳で松竹の女優だった九條と結婚。ハツとの同居先を出る。
1967年(昭和42年)1月1日「天井桟敷」を結成。4月18日草月アートセンターで旗揚げ公演。演し物は『青森県のせむし男』。6月新宿末広亭で第二回公演『大山デブコの犯罪』。アートシアター新宿文化で第三回公演『毛皮のマリー』。3月評論集『書を捨てよ、町へ出よう』が刊行される。詩人、歌人、劇作家、演出家として活躍。
33歳で九條と別居
1969年(昭和44年)西ドイツフランクフルトの『国際実験演劇祭』に招かれて『毛皮のマリー』、『犬神』を初の海外公演。カルメン・マキ「時には母のない子のように」の作詞を手がける。
1970年(昭和45年)3月24日、漫画『あしたのジョー』の登場人物、力石徹の葬儀で葬儀委員長を務める。
34歳で九條と離婚。離婚後も九條は晩年の寺山のよき協力者となった。
1971年(昭和46年)『書を捨てよ、町へ出よう』で劇映画に進出。サンレモ映画祭でグランプリを獲得。フランスのニースで作家ル・クレジオと2日間語り明かす。ロッテルダム国際詩人祭に出席し、詩を朗読。フランスナンシーの演劇祭で『人力飛行機ソロモン』、『邪宗門』公演。ベルリンのフォーラム・シアターで『邪宗門』公演。ベオグラード国際演劇祭で『邪宗門』がグランプリ受賞。
1974年(昭和49年)映画『田園に死す』が公開され、文化庁芸術祭奨励新人賞、芸術選奨新人賞を受賞。
1975年(昭和50年)杉並区内で上演された市街劇『ノック』が住民の通報により警察沙汰となる。
1979年(昭和54年)肝硬変で入院。
1980年(昭和55年)渋谷区内で取材中、アパート敷地に住居侵入したとして逮捕され、略式起訴された(「のぞき現行犯」と報道された)。
1981年(昭和56年)肝硬変の再発で再入院。
1982年(昭和57年)朝日新聞に詩『懐かしのわが家』を発表。パリで「天井桟敷」最後の海外公演を行い、『奴婢訓』を上演。
1983年(昭和58年)東京都杉並区永福在住中、河北総合病院に肝硬変のため入院。腹膜炎を併発し、敗血症で死去。47歳没。戒名は天游光院法帰修映居士。
(出典元: wikipedia, http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%B1%B1%E4%BF%AE%E5%8F%B8)
アーカイブ

人気の展覧会

<<        >>

最近見た展覧会はありません。

<<        >>

クリップした展覧会はありません。