川瀬巴水

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川瀬 巴水(かわせ はすい、1883年(明治16年)5月18日 - 1957年(昭和32年)11月7日)は、日本の大正・昭和期の版画家。本名は川瀬 文治郎(かわせ ぶんじろう)。
衰退した日本の浮世絵版画を復興すべく吉田博(1876-1950)らとともに新しい浮世絵版画である新版画を確立した人物として知られる。近代風景版画の第一人者であり、日本各地を旅行し旅先で写生した絵を原画とした版画作品を数多く発表、日本的な美しい風景を叙情豊かに表現し「旅情詩人」「旅の版画家」「昭和の広重」などと呼ばれる。アメリカの鑑定家ロバート・ミューラーの紹介によって欧米で広く知られ、国内よりもむしろ海外での評価が高く、浮世絵師葛飾北斎・歌川広重等と並び称される程の人気がある。
仮名垣魯文は伯父に当たる。
wikipediaより転載
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%80%AC%E5%B7%B4%E6%B0%B4

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プロフィール
1883年(明治16年)東京都芝区(現港区)に糸組物(組紐)職人・庄兵衛の長男として生まれる。本名は文治郎。
十代から画家を志し
14歳の時、川端玉章門下の青柳墨川に日本画を学ぶ。次いで荒木寛友にも学び、
25歳で父親の家業を継ぐが画家になる夢を諦めきれず、妹夫婦に商売を任せ、

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27歳で日本画家鏑木清方の門を叩いたが20代も半ばを過ぎた遅い始まりに難色を示され洋画家の道を進められた。その為当時、洋画家の集まりとして知られた白馬会葵橋洋画研究所に入り岡田三郎助から洋画を学ぶ。しかし洋画の世界では挫折を経験し27歳の時、一度は入門を断られた鏑木清方に再度入門を申し出て許されると2年の修行を経て「巴水」の画号を与えられる。
1918年(大正7年)35歳の時に師の清方が得意とした美人画で行き詰まりを感じ始め、同門伊東深水の版画「近江八景」に影響を受けて版画家に転向。当時浮世絵版画は衰退の一途を辿っていたが、風景版画「塩原おかね路」、「塩原畑下り」を製作、数々の作品を渡辺版画店より発表し始める。これらを第一作として終生、夜、雪などといった詩情的な風景版画を貫いた。始めは伊東深水の影響が大きかったが、次第に歌川広重や小林清親の風景版画を研究していき、技法的な工夫も見られる。また全国各地に取材しており、数量も多い。新版画家中、織田一磨による石版画の風景画に対抗するかのように、木版風景画で良く知られた存在である。
1920年(大正9年)「旅みやげ第一集」完成。
1921年(大正10年)「東京十二題」、「旅みやげ第二集」完成。精力的に活動をしていた矢先
1923年(大正12年)40歳の時関東大震災で被災、多くのスケッチを失い一時失意の底に沈んだ。
1926年(昭和元年)「日本風景選集」完成。
1929年(昭和4年)「旅みやげ第三集」完成。
1930年(昭和5年)「東京二十景」完成。1936年(昭和11年)「日本風景集東日本編」完成。
1939年(昭和14年)朝鮮へ旅行「朝鮮八景」完成。
1944年(昭和19年)栃木県塩原市に疎開。
1948年(昭和23年)東京都大田区内に引越す。
1957年(昭和32年)自宅において胃癌のため死去。享年74。墓所は世田谷区北烏山の万福寺。法名は釈明巴水信士。「旅情の版画家川瀬巴水を偲び」の碑もある。
wikipediaより転載
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%80%AC%E5%B7%B4%E6%B0%B4
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