志布志中学校時代に吉井淳二(洋画家、文化勲章受章者、文化功労者、日本芸術院会員、社団法人二科会名誉理事)と出会い油彩画に目覚める。有島生馬のすすめで19歳でフランスに渡り、中川紀元の紹介状をもって藤田嗣治を訪ねる。以後、「オヤジ」「エビ」と呼びあう生涯の付き合いとなる、藤田の葬儀委員長も務めた。
パリ時代の海老原は、エビハラブルーと呼ばれる画風を確立しアンファン・テリブル(恐るべき子供)の異名を取り、次代のパリ画壇を担う画家として嘱目された。
世界恐慌のあおりをうけ帰国した後、独立展を中心に活躍。疎開していた熊本では海老原美術研究所(エビ研)を創立。戦後すぐに鹿児島で南日本美術展を吉井淳二と設立し、毎年パリへ留学生を送る制度は現在まで続く。
今では郷里の鹿児島市立美術館、児玉美術館を始め各地の美術館に多数作品が収蔵されている。
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